西暦 | 和暦 | 年齢 | 場所 | |
1863 | 文久3年 | 1 | 1月25日、徳富敬一(号 淇水)・久子の第五子長男として、熊本に生まれる。本名猪一郎。代々総庄屋をつとめた家柄。 | 熊本 |
1868 | 明治元年 | 6 | 弟健次郎(号 蘆花)生まれる。 | 熊本 |
1873 | 明治6年 | 11 | 熊本洋学校に入学。年少のため退学(8年、父の言に従い再入学する) | 熊本 |
1876 | 明治9年 | 14 | 熊本洋学校閉鎖と共に同校を退学。上京して東京英語学校(第一高等学校の前身)に通学する。満足せず、京都の新島襄の同志社英学校に移る。 | 東京 京都 |
1880 | 明治13年 | 18 | 同志社卒業直前に退学。上京後熊本に帰る。 | 京都 熊本 |
1882 | 明治15年 | 20 | 大江義塾を開き、史学、文章学、経済学を教え、共に学ぶ。 | 熊本 |
1884 | 明治17年 | 22 | 夫人静子を迎える。その後四男六女をもうける | 熊本 |
1886 | 明治19年 | 24 | 『将来之日本』を田口卯吉の経済雑誌社より刊行。その好評により一家をあげて状況。活動の場を東京に移す。 | 東京 |
1887 | 明治20年 | 25 | 民友社を設立し、総合雑誌「国民之友」を刊行。平民主義、平民的欧化主義を唱える。 | 東京 |
1888 | 明治21年 | 26 | 明治の文壇に最初の文筆家集団である「文学会」を月一回主催する。坪内逍遥、森田思軒、朝比奈知泉、森鴎外、幸田露伴、矢野龍渓など多彩な顔ぶれが揃う(24年春ごろまで続く) | 東京 |
1890 | 明治23年 | 28 | 「国民新聞」を創刊。同紙は藩閥政治を批判し、そのたびたび発行停止にあう。 | 東京 |
1892 | 明治25年 | 30 | 「家庭雑誌」創刊。 | 東京 |
1893 | 明治26年 | 31 | 『吉田松陰』(前刊本)を刊行。 | 東京 |
1894 | 明治27年 | 32 | 日清戦争には国民新聞社あげて、ジャーナリズム方面から協力。『大日本膨張論』を刊行。 | 東京 |
1895 | 明治28年 | 33 | 三国干渉を機に軍備の必要を唱え、富国強兵、国家主義を唱道。桂太郎と親交を持つようになる。 | 東京 |
1896 | 明治29年 | 34 | 「英文極東(The Far East)」刊行。新聞事業視察のため、深井英五と欧米漫遊に出帆。ロシアではトルストイと訪問。 | 欧米 |
1897 | 明治30年 | 35 | 帰国後8月、松方内閣の内務省勅任参事官に就任。変節漢と非難される。12月、松方内閣総辞職と共に参事官を辞す。 | 東京 |
1898 | 明治31年 | 36 | 「国民之友」「家庭雑誌」「英文極東(The Far East)」三雑誌を「国民新聞」に合併する。 | 東京 |
1905 | 明治38年 | 43 | 日露戦争講和条約を支持し、それに反対する民衆によって国民新聞社は焼打ちにあう。 | 東京 |
1908 | 明治41年 | 46 | 『吉田松陰』増補改訂版が刊行される。 | 東京 |
1910 | 明治43年 | 48 | 朝鮮の「京城日報」の監督の任につく | 東京 |
1911 | 明治44年 | 49 | 桂太郎の推薦で貴族院議員に勅選される。 | 東京 |
1913 | 大正2年 | 51 | 桂太郎の新政党を支持し、「憲政擁護・桂内閣排撃国民運動」によって国民新聞社は第二回の焼打ちにあう。10月、桂の死後政界から離れ、新聞事業に専念する。『時務一家言』を刊行。 | 東京 |
1916 | 大正5年 | 54 | 『大正の青年と帝国の前途』を刊行。 | 東京 |
1918 | 大正7年 | 56 | 『近世日本国民史』を起稿。 | 東京 |
1923 | 大正12年 | 61 | 『近世日本国民史』の中の『織田氏時代』『豊臣氏時代』に対し、帝国学士院より恩賜賞を授与される。国民新聞社、民友社は震災の被害を被る。 | 東京 |
1925 | 大正14年 | 63 | 帝国学士院会員に推薦される。 | 東京 |
1926 | 大正15年 | 64 | 国民新聞社財政たてなおしのため、根津嘉一郎の出資を仰ぎ、株式会社国民新聞社としてスタートする。 | 東京 |
1927 | 昭和2年 | 65 | 弟・蘆花と永別。 | 東京 |
1929 | 昭和4年 | 67 | 共同経営社との不和から国民新聞社を退社。「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」の社賓となる。 | 東京 |
1942 | 昭和17年 | 80 | 「日本文学報国会」「大日本言論報国会」の会長に就任。 | 東京 |
1943 | 昭和18年 | 81 | 文化勲章を受ける。 | 東京 |
1945 | 昭和20年 | 83 | 敗戦後、大日本言論報国会会長、毎日新聞社社賓を辞任、自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」と誌す。A級戦犯容疑者に指名される(昭和22年9月、戦犯解除) | 東京 山中湖 |
1946 | 昭和21年 | 84 | 持病のため自宅拘禁となる。貴族院議員、帝国学士院会員、文化勲章の辞任手続きをする。 | |
1948 | 昭和23年 | 86 | 静子夫人永眠、82歳 | |
1952 | 昭和27年 | 90 | 『近世日本国民史』百巻完成。公職追放解除される。 | |
1954 | 昭和29年 | 92 | 「読売新聞」に「三代人物史伝」を掲載(昭和31年6月まで)。3月、水俣市名誉市民に推薦される。12月、熊本市名誉市民に推薦される。 | |
1957 | 昭和32年 | 95 | 11月2日、熱海の晩晴草堂で逝去。 | 熱海 |
(「山中湖文学の森 徳富蘇峰館」より)