我等は決して眼の敵として、海軍の悪口をいうではない。むしろ悪口をいえば、陸軍の方 が、より多いかも知れぬ。しかるに海軍が長い間、日本国民を瞞ましていたことだけは、間 違いない。勝った勝ったで、遂に日本を、敗北の門前位ではない、座敷の中まで、海軍は引 っぱって来たではないか。東條元首相さえも、罷むる間際まで、海軍の実力を、余程買被っ ていたようである。これは予が親しく聞いた話である。しかし海軍にいわすれば、海軍も た陸軍を買被って来たというかも知れぬ。これも満更ら間違いとは思えない。抑もミッドウ ェイに於ける日本の奇襲が、奇襲とならずして、アメリカに先を越され、待ち伏せをして、 その来るを待構え、袋叩きに遭うたる一大失敗は、ニミッツ元帥も申した通り、日米海戦の 転換期である。これは勿論山本聯合艦隊司令長官在任中の事であった。即ち山口中将加来少 将等が、航空母艦と共に、海中に沈んだのも、この時であった。抑もこの失敗は、何に由来 するか。米国海軍が短波電気の力によって、予 め敵の来るを、察知したからであるという 申訳であるが、それも決して左様でないとは申さぬ。しかしながら、それよりも当時我が海 軍の将兵は、意満ち気驕り、眼中無敵の状態で、折角秘密にすべき事を、無遠慮に喋べり散らし、その為め敵に、一切の事が事前に通報せられた為めであるという説もある。それ等の 事について、今ここに詮議立てする訳ではないが、その以来山本聯合艦隊司令長官の意気振 わず。彼も「やがて自分も、君等の蹤を追うつもりだ」なぞといって、頗る気弱き歌や、手 紙の文句を書いているのを見れば、彼が戦歿は、彼として正さしくその希望通りであったか も知れぬ。同時にまた東條の言葉の如く、彼としては、仕合せであったかも知れぬ。若し今 日まで生きていたとすれば、折角付けたる金箔、全く剥げて、元の木阿弥となったかも知れ ぬ。古賀〔峯一]大将の如きは、如何なる仕合せ者か、別にこれと申す手柄もないのに、元 帥まで成り上がった。生きていたら、あるいは軍法会議にかかるような事を、仕出かしたか も知れない。彼も亦た仕合せ者の一人といわねばならぬ。
殊に驚くべきは、昨年(昭和十九年)の今頃であったかと覚ゆ、台湾沖航空戦の戦果が、 慶でたしという訳で、小磯内閣は、殊更に祝酒の増配を、一般に施して、国民と共に、祝酒 を汲んだことがある。しかるに何ぞ料らん、台湾沖の一大戦果も、引続いて出で来ったフィ リッピンの一大戦果も、その実は日本で評判する程でないばかりでなく、事実はむしろその 反対であったということである。国民として、全く当局者から欺まされたといわねばなら ぬ。これは海軍が欺ましたという訳でもあるまいが、しかし何れにしても、欺ました者があるに相違がない。最後に至っては、海軍は無謀無策、ただ特攻隊によるの外はなかった。し 4 かし我等は決して海軍のみを咎むるではないが、その無能無策振りには、聊か驚かざるを得ない。しかも最後まで白々しく、勝った勝ったで国民を引っぱって来た、その図々しさには、驚かざるを得ない。正直のところ、海軍が化けの皮を、若干にても現わし来ったのは、 米内海軍大臣以来の事である。米内氏は議会でも、総ての事実ではないが、例えばフィリッ ピンに於ても、沖縄に於ても、我が海軍が弱体であることを、率直には語らなかったが、ほ のめかした。これだけは、先ず米内大将にとっては、一の取り柄といわねばなるまい。
東郷聯合艦隊司令長官が、如何なる神機妙算あったかは知らない。しかし彼には長官たる だけの胚は、確かに出来ていた。自分の部下が死んだからとて、俺もやがて御身の蹤を追う などという、弱音を吐いたことは、一遍も無かった。彼はただ黙々として、やるだけの事を やった。また言わねばならぬ場合には、「撃滅」などという思い切たる言葉を、明治天皇に 向って、申上げた。要するに海軍も、訓練は激しくした。また部分的には相当の進歩もした ようだが、しかし粒が段々小さくなって来たことは、争われなかった。これは固より海軍に 限ったことではない。
(昭和二十年十月十二日午後、双宜荘にて)
●メアリ・デントン老女史への返翰
デントンさん
十月二日熱海宛の御手紙は、この山中湖畔で只今受けとりました。今日は十月十二日であ ります。久しぶりに今日は空が晴れて、私の書斎まで富士の山がはいっています。まこと に立派な景色であります。あなたの御手紙は、この書斎で繰返し拝見しました。定めて私 の申すことは、あなた方の気に入らない事が多かったと思いますが、私が日本を愛して、 その為に申したことであるという事を、御認め下さった事は、有がたく存じます。世間の 評判によりますれば、やがて私は戦争犯罪者の一人として呼び出されるということであり ます。私は今それを何ともはっきり申上げることは出来ません。正直のところ、今後私が 如何になるかを、誰れも私に告げる者はありません。けれども私は何とも思いません。誰 れの前にも、即ちアメリカ人の前にも、日本人の前にも、悪魔の前にも、天使の前にも、 乃至神様の前にも、立って私は私の為したる事、為さんと欲する事を語ることを、何等恐 るる者でありませぬ。どうかこの一点だけは御安心下さい。実を言えば、私はむしろこの 事あることを希望して居ります。私は日本の齢で八十三、仕たい仕事はまだ沢山残って居 りますが、さりとて今この一命を失うたとて、何等惜しいことはありません。私の命で国 が救わるれば、何時でも差出します。私はむしろ日本国の為めに証しを立つる機会の来る ことを心から祈って居る者であります。
デントンさん、これは決して私の我慢でもなければ、剛情でもありません。日本にこれ だけ沢山の男もあり、女もありますが、アメリカに向って、日本が何故に戦わねばならぬ 事になったかという事を、明白に語って呉れる者はない。また呉れた者もない。これが幸に私の任務となれば、これは命をかけても為し遂ぐべき任務と信じて居ります。私の家内 も無事で居ります。宜しく申上げます。何時までもあなたが永く日本の為に尽されんこと を切に祈って、この御返事を終ります。
左様なら
昭和二十年十月十二日
徳富 猪一郎
デントン様
この手紙を日本文で差上げたのは、私が深井〔英五〕君ほどには英語が未熟の為でありま す。誰れぞよき翻訳者に頼んで下さい。下手の翻訳者では私の書いた意味が全くあなたに 受け取れないかも知れません。第一等の翻訳者に頼んで下さい。(以下、英文省略)
コメント