「八月十五日以来予の手許に、既知未知の人より、投書少なからず。概して予の同情者が多いようだが、中にはその反対の人も、若干見受けらるる。左に掲ぐるは、何れも葉書であり、且つ従来予と没交渉の人である。今、その標本として掲げて置く。
前略
遂に国家はこんなになった貴下は如何の感かある未だ一族と共に老腹掻切つた噂もない抑この戦争を献策し賢弟たる健次郎氏屢言はれた「オベンチヤラ」で時の政府に提灯持ちし遂に亡国に導いた、貴下は新聞人、米国の科学力と精神力をかねて知らなかったか、上院議員として又歴史家として暴力が、侵略が最後に勝つと思ったか?汝はその著書を一切絶版して罪を国民に謝し万死も足らぬが戦争犯罪者として敵国の裁に立たれよ又自決もよからう速に処置されよ
九月十五
静岡県浜名郡都田田中某
山梨県山口湖畔双宜荘徳富蘇峰殿
憂国警世明治―昭和三代の日本に貢献せる老先生に敗戦の苦杯を捧げんとは嗚呼。軍官界に於ける俗物指導者により光輝ある二千六百年は過去的遺物となれり原因奈辺に在りや挙げて教育に在り願はくば先生「迷へる一億」の為将来生活の指針を御教示賜はらんことを我等今日在るは死より辛きものあり
(三代目横文字で書く売家札)
每日新聞編輯局
徳富蘇峰先生一愛国者
昭和二十年八月一
(消印)209•10田高
それに又予の友人で有名なる水彩画家某氏(三宅克己)は左の如き一書を送って来た。これも参考の為に掲げて置く。
拝啓
先生その後御健在なりや乍蔭御安否御案じ申上居る次第持て今日の到来を予期致し居りし私如き者でさへ呆然唖然荘然何とも言葉無く存候何から何迄征夷大将軍の命令絶対の服従全く独立国の資格無き立派な属国同様これも畢竟剣を持て立ち剣にて亡されし日本の真の姿として悔む処無く自業自得の応報と諦むるより外無くと存候蓋し頑冥なる軍閥政治又国民を欺瞞勝なる政府の下に苦しみ居るより、寧ろ痛快とも相覚え申居候国民として悲嘆限り無き極なれどこれも定まる宿命と諦め申居候
以下知友の戯作御一笑までに
◎鬼の前に土下座して居る桃太郎 ◎子ハ玉砕親ハ都で瓦砕なり
◎米足りん飛行機足りん脳足りん ◎帝都へハ一機も入れずは笑ハせる
◎丸腰で四ん等にほり込まれ ◎神州は太古に返り穴ずまゐ
◎浮ばれぬ五十六、東郷、乃木、春畝 ◎禁酒禁煙禁糖禁茶次は米
◎向ふづねをかぢつて見たが歯が立たず ◎世の中ハ地獄の沙汰も米次第
◎日丸を洗ひ落せば白い旗 ◎世界一日の出る国の座敷牢
◎○○に『いぬじに』と云ふルビを振り ◎お茶受けに降伏饅頭などいかゞ
◎竹槍は束にくくつてほり出され ◎あな哀れ紋平五着もてあまし
◎到る所青山あつて家は無し ◎英機は男軍なかばに家を建て
◎伊勢の神も愛想つかして風吹かず ◎雪隠で腹の切り方考へる
◎駅長の弁当白し卵焼
二十年九月十八日
蘇峰先生玉案下
真鶴港三宅克己拝
以上は全く標本だけであるが、これにて即今世情の一斑を察することが出来る。(中略)
近頃意外の感をなすのは、現総理大臣宮を初め、前首相鈴木大将、現海相米内大将、現国務相元首相近衛公爵などの、外国新聞記者に対して告白せられたる新聞の記事である。自分はそれを読んで、洵に意外の感をなさざるを得なかった。例えば首相殿下は、自分は初めから大東亜戦争には反対であると言明せられた。当時宮殿下は、陸軍の重要なる位地に居られた御方であり、且つ皇族で、主上に接近の位地に在したることであれば、その時反対の事を言明せられて然るべきに、その時には沈黙し、若くは沈黙せざる迄も、反対を表明する程の事をせず、今日になって斯く申さるることは、如何にも心外千万と思う。近衛公爵の如きも亦た同様である事を言って居られるが、それに対して、米人ミルラー氏曰く、若し近衛及びその仲間が、彼等の言う通りであったならば、何故にその生命を犠牲としても、それに反対し、それを阻止しなかったか。しかるに彼等が軍閥に引ずられて、ここに至ったるは、即ち彼等も亦た軍閥と共に、戦争犯罪者として、責を分つは当然であると。また近衛公が日本に英国流のデモクラシーを建立するであろうという説に対して、スウィング氏は曰く、元来デモクラシーは、天皇や公爵などによって建立すべきものではない。むしろ天皇や公爵より権力を剥奪するところの、人民によって建立すべきが原則である。若し日本がデモクラシーを建立するとせば、日本人民がこれを建立するより外はない。近衛公爵の語るところは、支配階級が依然支配を継続するところの、十年も後れたる事を、今尚お繰返しているに過ぎないと。
これらの評は、必ずしも適中とはいわぬが、当らずと雖も遠からざるものがある。予は未だ曾て、長き予が文壇の生涯に於て、今日の如く日本を民主国となすなどということを、言ったこともなければ、書いたこともない。予は壮年時代に、最も急進なる民権論者であった。しかし予の民権は、官権に対する民権であって、君権に対する民権ではなかった。予は民主という言葉を決して用いなかった。デモクラシーという文字を翻訳するに付てさえも、民主という言葉は、用うることを慎しんだ。予は殊更に「平民」という言葉を使用した。これはデモクラシーの翻訳でもなければ、直訳でもない。民主という言葉は、要するに君主に対する言葉である。君主国に民主があるとすれば、主権は二本建てとなる訳である。所謂る天に二日ある訳である。故に予は民主などという言葉を、容易に使用することを慎しんだ。予の所謂る「平民主義」は、貴族主義に対する平民主義であって、君主主義に対する平民主義ではない。従て予は昭和四年毎日新聞と契約をする時に、「平民主義に依て調節せられたる皇室中心主義を基本として」云々と書いた。これが即ち我が国体の本義と思う。即ち一君万民の制がこれであり、維新の皇誤がこれであると信ずる。今更今日に於て、日本に民主主義を行うなぞという事は、飛でもない間違いであって、かかる事を言えばこそ、今申す如きスウィングの批評も出で来る訳である。
絶対降伏の主唱者達は、自分等の力によって、国体を全うしたというが、日本にアメリカ流の民主主義を植付けて、それで果して国体を全うすることの出来得べきや否や。霜を履て堅氷至るという言葉がある。予は近き将来に、彼等が後悔する日の来るであろう事を懸念せざるを得ない。殿下は兎も角も、近衛公爵程の人であれば、何故に今少しく、この戦争を挑発したるは、米国であると言わなかったか。それを言うことを憚かるほどなら、自分が責任を引受けて、自ら挑発者という外はあるまい。アメリカ人が近衛公爵の言に対して、卑怯である、臆病である、責任を軍閥に転嫁するものであるといったのは、相当の理由があるように考えられる。
これと事変って、更に最も驚く可きは、鈴木前首相の外人記者に対しての言明である。彼は組閣の当初から和平工作をやっていたといっている。即ち和平の為めに、内閣を組織したということであるが、これを驚ろかぬ者はあるまい。鈴木首相は天下に向って、戦争一本建てであると宣言し、人々は予が屍を乗り越えて進めと宣言し、また徳川家康の三方ヶ原の例を説いて、戦争は決して物量のみで決するものではない。また一時の勝敗で決するものではない。堅忍不抜の精神で、家康の如く、最後まで頑張る者には、その勝利を得らるるものであると、繰返し説いている。現に七月二十八日には、首相官邸で、内閣記者団と約一時間会見し、必勝の信念を語っている。予自身も亦た鈴木首相と会見し、親しく首相から、戦争一本建ての意見を聴き、それを実行するについては、予も意見を陳述し、また覚書を呈し、あるいは書簡を呈し、あるいは閣僚左近司国務相によって、意見を伝達したることもある。予は鈴木首相には多大の同情と信頼とを措いた。殊に首相が老人である点からして、老人たる予には、深き同情を傾けざるを得なかったのである。あるいは世間を瞞着して、言う事は行わず、行う事は言わずという流儀でやったとしても、予の如き、好意を表する者までも、欺ますようなことはあるまいと考えていたが、正真正銘と天下に銘打ちたる首相が、外人記者に向って言明したるところを聴て、聊か茫然たらざるを得ざるものがある。
予ばかりでなく、本多熊太郎翁の如きも、鈴木首相から仮令九州の全部を失うても、決して屈服はせぬとまで、明言されたということを聞いているが、それは保証の限りではない。何れにしても、莫迦を見たのは、心から鈴木内閣を支持したる、殊に鈴木首相を支持したる我等である。自らその愚を喰うの外はない。君子は欺くべく融うべからずとの言葉を想起して、聊か自ら慰むる外はあるまい。
鈴木首相は既に二・二六事件で一命を失うている。今更命の惜しき筈はない。しかるに彼は国民を掴むき、国を売った。売った心根は、国家の為であったとしても、あるいは皇室の為であったとしても、売った張本人であることには間違いは無い。されば辞職と同時に、若
くは新内閣の組織と同時に、若くは絶対降伏書の調印と同時に、必ず自決すべきものと、我も人も思っていたが、尚お外人記者に語るところによれば、前途御奉公をする積りといっている。日本は今後如何なる御奉公を、鈴木前首相に期待するであろうか。我等は実に意外千万に思っている。尚おまた米内海相が、外人記者に語りたるところによれば、彼は実に敗戦論者の真面目を暴露して来た。彼は戦争二年目に、もう駄目と諦めていた。かくの如き人によりて、日本海軍が支配せられ、運用せられたることは、今更ながら日本海軍にとって、非常なる失態であったといわねばならぬ。
(昭和二十年九月二十三日午前、双宜荘にて)
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