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四五 米国、神道の廃絶を期す

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神道の問題に関聯して、最近頻りに米国方面から、日本神道の問題について彼是れ申込ん で来ているようだ。十月七日ワシントンの特電によれば、アメリカ政府は、日本の国家的宗 教たる神道の廃絶を決定した旨公式発表した。これは日本人を、再び平和愛好国民たらしむ る為めの、非常手段の一であるが、但し個人として、神道を信ずるのは妨げない。神道は今 後国家の維持、学校その他で占める地位特典を失い、国民に対し、その信仰を、公然強制す る事は、許されないであろうとある。これは前にも述べたる通り、先ず第一に神道の定義を 確かめた上でなくては、問題にすることが出来ぬ。米国の考えでは、神道ではなく、恐らく は神社であろう。即ち伊勢大神宮、橿原神宮、明治神宮、熱田神宮などという、あらゆる神 社を一括して、かくいうのであろう。しからざれば、天理教でも、金光教でも、黒住教で も、所謂る神道諸教派は、皆な下から盛り上がり、むしろある時代、ある政府では、迫害を した程であるからだ。それで予はむしろここに神道とあるのは、国家がこれを支配し、国家 がその宮司を選任して、国家がこれを支持している官国幣社についてのことであろうと認め る。しかし前にも言った通り、日本国民の官国幣諸神社に於けるのは、宗教的信仰ではなく して、日本臣民、日本国民の資格として、これを崇敬するものである。しかるにこれを崇敬 するから、日本が好戦国民であり、これを崇敬しないから、日本国民は平和愛好国民となるなぞという事のあろう筈もない。余りに無了解、没分暁漢の至りである。聞くところによれ ば、マッカーサー元帥は、九月二日絶対降伏調印の日、小閑を偸んで、幕僚数輩と鶴ヶ岡八 幡宮に参拝し、造矢を社務所から受けて帰ったという。日本の新聞は、これをマッカーサー の美徳の一に数えていたようだが、マッカーサー自身としても、日本人が神社を崇敬するの は、所謂る神道なるものとは、何等縁故の無い事が判かるであろう。

次にまたアメリカでは、皇室制度に頗る神経を悩ましているようだ。米国国務省極東問題 部長ジョン・C・ヴィンセントは、最近ラジオ放送をして、「日本占領は、日本が武装を解 除され、完全に軍閥が艾除され、民主主義革命への道が、立派に開かれるまで続くであろ う」といい、また「日本国民は、彼等が欲するならば、皇室制度を護持することが出来る が、それは大規模な修正を要するであろう」といっている。皇室制度の修正なるものは、如 何なる意味であるか。即ち我々が天皇を、日本国民の頭首として、戴きつつあるを一変し て、英国の如く、帽子として戴くものとなすを意味するであろうか。将た他に特別の方法あ るか。それらの所は、今明白にこれを知ることは出来ぬが、要するに皇室も神道も、彼等の 眼中には、ここに日本精神の巣窟があり、本拠があり、根底があるものと認めて、一挙にそ れを覆滅せんと考えているものであろう。これは決して、予が見当違いでもなければ、邪推 でもない。予は当初から、かくあるべき事と、予期していた。

即ち先ず第一に、彼等は日本国の武装解除をなし、日本国が一国としての、自主独立の運 動をなす事を得ざらしめ、宛かも宿借虫が、他人の殻に宿を借るが如く、日本国民も未来永 劫、他の恩恵によりて、生息するの外に、手段方法なからしむるようになす事が第一着であ る。第二着は即ち日本精神を消解せしむる事で、この精神存在する間は、武装解除したと て、精神的の武装をしているから、赤手空拳でも、如何なる事をやり出すか知れない。よっ て武装解除の目的を徹底せしむる為めには、精神的武装解除をやらねばならぬ。それには 所謂る日本国民の、国体観念を打破せねばならぬ。国体観念の外廓は、彼等が所謂る神道、 即ち日本国民の国祖崇拝、偉人崇拝、祖先崇拝、歴史崇拝にして、即ち国体観念の外廓とも いうべき、彼等の所謂る神道、即ち神社撲滅をやらねばならぬ。これは彼等ばかりでなく、 既に元亀天正の頃、日本に渡来したる西班牙、葡萄牙の宣教師共が、神社仏閣を放火し、若 くは破壊したる事によっても、その先例が見られている。しかしこれは外廓である。その内 部は、即ち日本国民の、皇室に対する崇敬である。忠愛である。故に彼等はこの皇室制度 を、眼の敵と思っている。出来れば彼等は、日本人の力によって、この皇室を廃したいと、 思っているであろう。さればこそ彼等は、社会党とか、共産党とか、三千人の政治犯者を、 一度に釈放せよと、迫ったのであろう。しかし彼等自からが手を下して、日本の皇室制度を 廃止するという事とならば、日本に必ず一大騒動が起るであろう。彼等もこの位の事には、 気が付いている。それで彼等は、その実を去り、その名を存し、皇室をして、有れども無き が如く、有名無実たらしむる如く、その制度を改正せんと目論むであろう。かくすれば、日本精神も、やがてはアメリカ精神となり、日本国体観念も、やがてはアメリカ国体観念とな り、所謂る民主一点張りで、日本人も米国と同化し、所謂る第二第三の比律賓、布哇となる を得るであろうと、察せらるる。

若し常識ある日本人なら、今予が言うた通りの事を、必ずしも予が解説を俟たずに、直ち に了解すべきである。しかるに今日の世間を見れば、昨日まで国体一点張であり、毎正月元 日には、伊勢の神宮に参拝して、十幾年とか、幾十年とか、未だ嘗て欠かしたことがないな どと、誇っている先生達が、相率いて民主主義民主主義と、真っ向うに民主主義を翳して、 民主以外何物もないかのように、振舞いつつあるは、果して日本を、精神的に米国化して も、安心と思うているのであろうか。彼等の神社崇拝、彼等の国体観念、彼等の皇室中心 は、今何処に逃げ去ったのであろうか。予は頗るこれを意外の事と考えている。

その精神が心髄まで腐敗したる便乗主義者は、今更相手とする必要はないが、心にかかる は、今日の青年である。またこれからの青年である。今日の中堅所が軍部に於ても、官界に 於ても、将た実業界に於ても、最も日本の国民層に於て薄弱であるのは、何故であるか。そ れは彼等が明治末期から大正にかけて、極めて放漫なる教育といわんよりも、むしろ「無教 育」を受けたからである。固よりその中には、相当の除外例はあるが、この中堅階級は、聡 明でもあり、悧発でもあり、物事の筋道もよく呑込み、一通りの役には立つが、所謂る以て六尺の孤を託す可し、以て百里の命を寄す可しという如き、凜然たる大節ある人は、殆ど見 出されない。これは決してその年齢の人に限らるる訳ではない。彼等の時代の教育が、悪し かったからである。而して却て最近の青年所に至れば、尚お真純にして、日本精神の全く発 育したとはいわぬが、その萌芽が認められている。これは畢竟昭和の中期以後、余り世の中 の放漫なる教育に驚ろかされて、その発動の大勢の裡に、出で来ったからといわねばなら ぬ。この事は特攻隊の年齢を調査して見れば、最もそれが明白にせられている。過去この通 りでありとすれば、今後日本の教育が、所謂る民主化するという事は、日本にとっては、何 よりも大なる危険であり、禍害であり、呪咀でありといわねばならぬ。
所謂る民主化の教育とは如何なるものであるか。日本人をして、日本人たることを忘れし むるの教育である。日本国民をして、日本国民たるを忘れ、併せて日本国そのものを忘れし むるものである。せめて日本人をして、米国人が米国を愛する如く、日本を愛するように、 教育せしむれば、尚お忍ぶべしと雖も、それはとても望まれない。恐らくは今後の所謂る民 主主義化の教育は、自己本位の教育以外に、何物をも許さぬであろう。(中略)しかし今後 民主教育を受けたる日本人は、果して日本人たるの誇りを、世界に向って発揮するだけの気 魄あるか。また日本の旧慣故例を堅持して、敢てらない操守あるか。また一の宗教とし て、神道にもせよ、仏教にもせよ、何教にもせよ、団結する力あるか。今日でさえも、彼等 は最早や日本人たることを愧じているではないか。現に予が経過し来ったる、明治の中期頃 には、多くの日本人は日本人たることを愧じていた。況んや今後丸裸の日本人たるに於てやだ。(中略)日本人には、厳正なる訓練が必要である。厳師良友が必要である。しかる に、一切を除却し去って、所謂る民主教育とするに於ては、如何なる無頼、放蕩、軽桃、浮 薄の人間が出で来るべきか。これを思うだにも、寒心せざるを得ない。

(昭和二十年十月十一日午後、双宜荘にて)

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