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二三 盗人猛々し侵略国呼ばわり

頑蘇夢物語
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自分は戦争犯罪とか、戦争責任とかいう言葉が、今日通用することについて、聊か不審がある。成程捕虜虐待とか、病院船を打沈めたとか、大きくいえば、原子爆弾などを無暗に投下したる者は、戦争犯罪者といっても可かろう。しかし勝った方から負けた方を吟味して、彼は犯罪者である、これは犯罪者であるなぞという事は、如何なるものであるか。例えば角力をとるに、勝ち負けの勝負がつけば、それで鼻はついている。勝ち角力が負けた角力に、謝罪状を出させるとか、罰金を取るとかいう事は、未だ曾て聞いたことがない。戦勝した上に、償金を取るとか、土地を取るとかいう事さえも、損害賠償という意味に於てのみ、その理由は成り立つと思うが、個人々々を引っ捕えて、彼は犯罪者とか、これは犯罪者とかいうことは、如何なるものであるか。近く例を取って見れば、日本が、大東亜戦争を、起したとはいわぬが、余儀なく起つに至った所以のものは、決して一人一個の考えではない。いわば国民的運動であり、国家の大勢である。殆ど自然の力であるといっても宜い。風の吹く如く、水の流るる如く、潮の差す如く、石の転じる如く、勢い然らざるを得ずして然るものである。日本などは三百年来、殆ど缶詰にせられていたものであるが、鎖国の夢を米国の為めに破られ、漸く目を醒まして見れば、窮屈で窮屈で、手を伸ばすことも出来ず、足を伸ばすことも出来ず。その為め余儀なく四周に膨脹し来ったものである。その手足となった者を罪人として咎めた時に、追っ付く話ではない。如何に軍閥などが戦争せんとしても、国民の運動が、それに副わざる限りは、出来るものではない。戦争の仕方に付ては、軍閥のやり方が、下手とか、上手とかいう論も出来るが、少くとも予が知り得る限り、大東亜戦争は、決して軍閥が製造したものでもなければ、作為したものでもない。恰かも田舎の水車が、少しずつ水が溜って、その溜ったる力で、車が回転する如きものである。その力というは、即ち国民的運動力である。国民の志望というてもよく、国民の欲求といってもよい。あるいは国民的本能というても差支ない。若し罰せんとすれば、国民的本能その物を、罰するより外に仕方はあるまいと思う。日本が必要もないのに、軍閥という一階級が、殊更に戦争を企らんで、平地に波瀾を起したなどと思うことは、余りにも浅薄なる考え方と思う。

 スターリンは、日本を侵略的国民というが、これは盗人猛々しといわねばならぬ。侵略国の標本を世界でいえば、ソ聯、英帝国、次に北米合衆国である。彼等は何によって、大を成したかといえば、皆な殆ど侵略によって大を成したのである。その侵略の方法には、あるいは戦争によるものもある。あるいは外交によるものもある。ソ聯の如きは、最も火事場泥坊の名人で、どさくさ紛れに、何時も奇利を専らにしておる。例えば、英仏同盟軍が大沽を陥れ、円明園を焼き、清国皇帝が熱河に蒙塵したるに際し、奇貨措く可しとして、イグナチーフ将軍は、支那より黒龍江一帯沿海州を掠奪したではないか。近くは日本が絶対降伏を宣する暁に於て、殆ど手を濡さずして、満洲のみならず、朝鮮半分を手に入れたではないか。掠奪国とは、かかる国をいうべきものである。英国米国何れもその通りであって、奇くも歴史の何頁かを読んだ者は、中学校の子供でも、よくこれを知っている。今更日本を侵略国呼ばわりするなどという事は、余りにも事実を謳うる事の甚しきものである。また英米諸国は、日本を好戦国などと称しているが、日本の何処を探せば、好戦国たる事実があるか。好戦国という文句は、誰れよりも、英米両国が、自から引受けねばならぬ名称である。日本は島原耶蘇の乱以来、戊辰に到る迄、殆ど三百年に垂んとして、一回も戦争らしき戦争をしなかった。勿論百姓一揆とか、竹槍騒動とかは、偶々あったが、それは喧嘩の大なるものであって、戦争と名の付くべきものではなかった。これに反し、平和々々といいながら、英米両国は、殆ど毎年とはいわぬが、矢継早やに、戦争から戦争を継続している。論より証拠、統計をとって見れば、極めて明白な事実である。日本人の性格は、戦国時代日本に宣教の為めに来航したる、ザベリオ師が、よくこれを語っている。日本人は不正を為す者ではない。不義を行う者ではない。但だ極めて面目を重んずる者であるから、その面目を傷つくる者に対しては、必ず報復する、と言っているが、これが最も日本人をよく了解したる者の言と思う。もし日本人が戦うという場合があったらば、報復の為めである。戦わねばならぬ迄に、仕向けられたる為めである。語を換えていえば、防禦的戦争というの外はあるまい。自分は決して軍閥の味方でもなければ、敵でもない。別に軍閥を庇護せんとする者でもなく、また同時に軍閥を罪に陥とさんとする者でもない。戦争の責任を軍閥のみに帰するという事は、全く間違いである。
(以下、省略)
(昭和二十年九月二十三日午後、双宜荘にて)

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