スポンサーリンク

二一 戦争犯罪者と戦争挑発者

頑蘇夢物語
スポンサーリンク

ある人曰く、貴君はやがて戦争犯罪者として、米国側より引っぱらるるという評判だが、貴君の覚悟如何。予曰く、予は何等この戦争について、公私何れの方面から見ても、罪を犯したる覚えがない。しかしもし彼等が戦勝国の威力を以て引っぱるとせば、逃げもせず、匿れもせず、立つ可き処に立って、言う可き事を言う積りである。予としては、この戦争について、予が執りたる一切の行動につき、天地に対して何等疾しき所はない。友しき所がなければ、懼るる所もなければ、後悔する所もない。自分は今尚お自分の歩いた道を正しき道と考え、為した事を正しき事と考えている。元来戦争は一個人の手で出来たものではない。国家がこれを始めたのである。我等は国家の元首である天皇陛下の詔勅を奉じて、最善の努力を為した者である。今更我等が努力をした事に対し、何等愧ずることもなく、悔ゆることもない。従て誰に向っても謝まることもない。但だ遺憾であったのは、自分の持っている力を、充分出す機会を持たなかった事である。しかしこれも今となっては、致方がない。我等は昭和十六年十二月八日の宣戦詔勅の御趣意を奉戴したる者である。この詔勅は、正さしく戦争の目的を、世界に明かにしたるもので、畢竟この戦争は、日本が自衛の為めに、已むを得ず気に至ったものである事は、中外共にこれを知っている。アメリカの兄弟国である英国の国務大臣リットルトン氏が言った通り、この戦争は、全く米国がこれを挑発したるものという事は、我等今尚お確信するものである。されば天皇の詔勅を奉じて働らいた者が罪人とすれば、日本国民を挙げて罪人とせねばなるまい。固より予もその中の一人であることは、決して否定せない。我等は皇室中心主義を奉ずる者である。この信条によって、日本国民として行動したる者である。我等が戦争に努力したのは、陛下に忠節を尽す為めに努力したのである。決して我等が自己の利益とか、自己の感情とか、自己の目的とかという為めに動いたものではない。されば昭和二十年八月十五日、陛下の御放送を謹聴し、我等の心には、未だ何故にここに至ったかという、また何故にかくせねばならぬかという理由も、事情も、筋道も、瞭きりしなかったに拘らず、我等はその場限り、戦争をプッツリ思い止まり、予自身の如きは、言論人としての予は、最早や無用の存在であると諦らめ、直ちに一切の言論関係を絶ち、一個の老書生となった。これは平生信奉する皇室中心主義を実行したるものである。

あるいはかくいえば、一切の責を陛下に帰し奉るではないかという者あるが、責任論は別がである。日本憲法に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるからには、陛下に責任をかけ奉る意思のある可き筈はない。陛下は現津神にして、責任の上に超然として在しますことは、単り憲法がこれを認めるばかりでなく、日本固有の国体として歴史がこれを認めている。ここに日本の国体というものが、世界の何れの国体とも類を同じくせざるものがある。我等は決して天皇陛下に責を帰し奉る者ではない。同時に我等は陛下の御心を体して、臣民の誠を喝したるということに過ぎざることは、我等は何人に対してでも、公言して憚らざるところである。今日日本は、絶対降伏国である。故に日本人として、我等は極めて不利益なる立場に立っている。従て米国側では、通さんとすれば、如何なる横車でも、通すことが出来よう。しかし我等は、日本国民の殆ど総てが、決して好んで米国と戦争をするものではない、ただ米国が大を恃み、強を恃み、あらゆる物資万能の力を以て、両米大陸に「モンロー主義」を布くのみならず、東亜までもそれを布かんとする態度を遺憾とし、最初は加州に於ける日本人差別問題より始まり、あらゆる迫害と侮辱を加え、延てはA・B・C・D包囲攻撃を以て、日本を缶詰にせんとする政策を執り、最早や退っ引きならぬ所まで、追い詰められて、万已むを得ず、ここに到ったものと信じている。

序ながら一言するが、自分は決して最初からアメリカと戦争を目論んだ者ではない。自分自身が決して好戦論者ではない。自分は本来英国マンチェスター派の意見に興味を持ち、平和的発展を期したものである。それは明治十九年|西紀一八八六年―自分の著述『将来之日本』を見れば明白である。またその以前より米国には頗る興味を持っていた。自分の少年時代にも、ワシントンの額は、自分の父の書斎に掲げてあった。自分は米国で十年以上教育を受けた新島襄の門下として、少年時代を過ごした。自分は明治十四年―西紀一八八一年―以来米国のニューヨークで発行する『ネーション』誌の愛読者であって、爾後数十年間継続している。また『アウトルック』の愛読者でもあった。殊にエマーソンなどは、今もなお愛読し、明治三十年―西紀一八九七年ーには、態々コンコードに赴き、エマーソンの墓を弔い、その旧宅を訪ねた程であって、エマーソンの子ドクター・エマーソンとも面会したる事を記憶し、その人から書籍を贈られた事もある。米国の制度については興味を持ち、仏人トクヴィルの『デモクラシー・イン・アメリカ』は、青年時代にこれを愛読し、また英人ブライス卿の『アメリカン・コモンウエルス』は、日本に於て最初の読者、若くはその一人であり、これを全訳せしめて、これを自分の社から刊行した程である。尚おテオドール・ルーズベルトの著書は、相当愛読し、所謂る「力の福音」なる言葉は、彼れの論文によって、大いに啓発せられたと思う。自分がマンチェスター派の意見より発展して、今日に至ったるについては、ルーズベルトの著書の、悉くとはいわぬが、与かりて力ある事は、疑を容れない。しかしながら、それはそれとして、自分は米国が強大を恃み、飽くを知らず、自ら日本人を圧迫せんとすることを、甚だ意外に感じたものである。

日米の関係がやや切迫に瀕した際、自分は殊更にグリュー大使を訪問し、意見を述べていることは、大使も記憶しているであろうが、当時参考人として、予が特に依頼したる竹下〔勇]海軍大将も健在であるから、承知のことと信じている。その会話の手控は今尚お予の手許に在る。それは左の通りである。

●駐日米国大使と会見の顛末

 昭和十二年十一月四日、予テ米国大使ニ会見ノ申込ヲ、竹下大将ヲ介シテ致シ置キタル所、本日午前九時半ヨリトノ返答ヲ竹下大将ヲ通ジテ得タ。依テ先ヅ大将ノ宅ヲ訪ネ、大将ト共ニ霊南坂ナル米国大使館ヲ訪ヒ、定刻ヨリ会見シタ。通訳ハ館員米人某氏ニテ、座ニハ予ト大使、別ニ竹下大将ハ「オブザーバー」トシテ列シタ。

 最初ニ竹下大将ヨリ極メテ手短ニ、大使ニ予ヲ紹介シ、握手ヲシタ。ソレカラ直チニ談話ニ移ツタ。予ハ最初ニ左ノ通リ言フター
「実ハ自分ハ大使ニ会見シタキ用務ガアルカラ、竹下大将ヲ以テ申シ込三タル所、早速今日ノ仕合セトナリ、誠二系ナク存ズル。予ハ自カラ紹介スルガ、五十年間新聞記者トシテ、今モ尚ホ大毎、東日ニ毎日筆ヲ執テ居ル。予ノ身分ハ貴族院議員ニシテ、学士院会員デアル。少年ヨリ米人ニ教育ヲ受ケ、又米国ノ書物ヲ多少読三来ツテ居ルカラ、マンザラ米国ノコトヲ知ラヌ者デハナイ。今日会見ノ要領ハ、新聞記者トシテ所謂ル大使ニインターヴューヲスル為メニ来タノデハナク、又大使ヨリ意見ヲ聴力ントスル為メニ来タノデモナイ。単ダ予ガ是非大使ニ向カッテ聴イテ貰ヒタイコトガアルカラ来タノデアル。最初ニ予トアメリカ大使館トノ関係ニ就テイヘバ、今ハ御疎遠デアルガ、昔ハカナリ頻繁ニ交際ヲシテ居タ。コロネル・バックガ日本ニ公使トシテ来ラレタル時ハ、偶然ニモ太平洋ヲ同船シタ。又グリスカム大使ニモ極メテ懇意デアッテ、慶々本館ニ往来シタ。又本館員ミルラー氏ハ、日露戦争ノ時ナドハ、毎日予ガ主宰シタル国民新聞社ニ来ツテ情報ヲ蒐集セラレタ……」
其時大使ハ語ヲ挟ンデ、
「何トカサウ云フ御関係デアレバ、今後モ旧交ヲ恢復セラレタキモノデアル」
ト云フコトデアツタカラ、予ハ更ニ語ヲ継ギ、
「イナトヨ、今日来タノハ、予ニ於テ是非トモ聴イテ貰ヒタイ事ガアッタカラ来タノデアルカラ、今後トテモ屢々御目ニカカルコトモアルマイト思フ。現ニ此処ニ居ラレル竹下大将ノ如キ親友サヘモ、年二一度カ二度御目ニカカルニ過ギナイ位デアッテ、何方トモ交際ヲ絶ツテ、専ラ修史ノ業ニ従ウテ居ルノデアル。然ルニ左様ナル予ガ、ワザく大使ニ会見ヲ願ウタノハ、決シテ尋常一様ノコトデハナイト、御察シヲ願ヒタイ。コレヨリ直チニ本題ニ入リマス」

 大使ハ日本ノ宿吏トハ常ニ接触シ、又同僚タル諸外国大使公使其他トモ交際シテ居ラルルカラシテ、其辺ノ意見ハヨク承知シテ居ラルルデアラウト思フガ、所謂日本国民ノ米国ニ対スル真相即チ国民ノ脈ト云フモノヲ如何ニ取ツテ居ラルルカ、其点ニ就テ申上ゲタイ
ト思フ。大使ハ果シテ日本国民ハ米国ニ対シテ敵意ヲ挟ンデ居ルモノト思フカ、将夕飽クマデ友邦トシテ愈々今後親交ヲ深メテ行クト云フコトヲ希望シテ居ルノデアルカ、其点ニ就テハ定メテ御考ヘモアルデアラウト思フガ、先ヅ第一ニ予自身ノ考ヘヲ申上ゲテ見タイ。次ニ我が国民ノ考ヘヲ申上ゲテ見タイ。予自身トシテハ米国ノ仕打ニ就テ可ナリ不平モアリ、不満モアツタガ、然モ概括的ニ之ヲ云ヒ、総体的ニ之ヲ断ズレバ、予ハ飽クマデ米国ト親交ヲ結ブヲ希望スル者デアル。日米ノ戦争ハ双方ニ取ツテ百害アッテ一徳ナシ。日米ノ親交ハ双方ニ取ッテ一害ナクシテ百徳アリ。コレ程判リ切ツタルコトハ無イ。ソノ判リ切ツタルコトヲ何故ニ今少シ明白ニ、確実ニ、普遍的ニ行ハナイノデアルカ。コレカラ国民ノ脈ニ就テ申上ゲタイト思フ。予ハ東西南北ノ人デアル。修史ノ余暇ニハ常ニ日本全国ヲ遊歴シテ、或ハ講演ニ、或ハ座談会ニ、其他ノ方法デ、常ニ国民ノ脈ヲトルコトヲ忘レナイ。予ノ足跡ハ弘前、仙台カラ名古屋、京都、大阪、神戸ヨリ中国、九州ニ及ンデ居ル。ソレデ何レノ所ニ於テモ、総テノ問題ノ中ニ於テ、米国問題ハ必ズ出テ来ルモノデアル。而シテソノ米国問題ノ要領ハ、敵カ味方カト云ヘバ、我が国民ハ何レモ米国ヲ敵トスレ、志ダ子マシクナイト言ツテ居ル。米国ハ日本ト商売上ノ関係、世所/作し日、ヨリモ、最モ親密ナル国デアルコトハ、単リ日本ノ米国ニ対スルバカリデナク、米国ノ日本ニ対スルコトハ、寧ロヨリ多シト云ッテモ宜シイホドデアル。然ラバ海軍ヲ拡張スルコトハ止メタラ如何ト云フニ、ソレニハ国民ハ承知シナイ。我等ハ米国ト戦フコトヲ欲スルレナイカラ、海軍ハ海軍トシテ、実力ヲ備ヘテ居ルコトガ必要デアルト信ズルモノデアル。然シ此ノ海軍ハ日本ヲ護ル為メノ海軍デアッテ、進ンデ米国ヲ攻ムル為メノ海軍デハナイ。海軍ハ海軍トシテ整備シテ居ナガラ、尚ホ且ツ米国ト親交ヲ続ケテ行キタイト云フノガ我ガ国民ノ真意デアル。今少シク広ク云ヘバ、日本国民ノ考へハ、独逸トハ条約上二於テ提携シ、米国トハトテモ条約ハムヅカシイカラ、不文ノ諒解ニ依テ親近シテ行キタイト云フコトデアル。コレガ先ヅ国民ノ現在ノ国策ト認メラレテ然ルベキデアラウト思フ。コレハ外務省ノ意見ヲ申述ルデハナイ。我が国民ノ意見ヲ代表シテ言フノデアル。ケレドモ予ガ大使ニ告ゲントスルハ之ニ止マラナイ。更ニ第二ノ事ガアル。

 今日日本デハ尚ホ英米ト称シテ、先ヅ英国ト米国トヲ同視スル習慣
国ト米国トヲ同視スル習慣ガアル。コノ習慣ノ為メニ、米国が如何ナル損害ヲ多ク蒙ムツタカハ、殆ド我等が予想外デアルト思フ。固ヨリ今日ノ米国が世界ノ大国デアッテ、英国トハ別ノ国デアルコトハ、判リ切ツタコトデアル。ケレドモ昔カラ日本デハ英米ト云ッテ、英国ノスルコトニハ米国ハ必ズ之ニ追随スルトシテ居ル。従テ英国ノ借金ハ米国ガ之ヲ代ツテ払フ可キモノト、必ズ断ゼザルマデモ、先ヅソノヤウナ考ヘヲ持ツテ居ル者ガ少ナクナイ。コレハ日本人が英国出版ノ書物ヲ余計ニ読ンダ為メデモアラウガ、英米ノ混同ト云フコトハ、識者以外ニハ猶ホ多数デアル。ソレデ此際米国ニ於テハ、飽クマデ英国ト米国トハ別物デアル、米国ニハ独自一個ノ主義ガアリ、政策ガアリ、方針ガアルト云フコトヲ、今少シ日本国民ノ頭ニ示サレタ方ガ利益デアルマイカト思フ。日本人ハ曾テスチムソン事件ナドニ就テハ、誠ニ憤慨ヲシタノデアル。然シ爾来両国ノ関係ハ頗ル良好デアッテ、今度ノ支那事変ニ就テモ、米国ノ態度ニハ、感謝シテ居ル者モ多イガ、近頃何トナク米国ガ英国ノ捲添ニナリッツアルヲ見テ、予ハ遺憾ニ思フ。予ハ更ニ今一言申シテ見タイ。ソレハ何故ニ米国が日本ト直接ニ事ヲ相談シナイカ。米国ノ政策ハ、何時モワザく大西洋ヲ大廻リニ廻リ、欧羅巴ヲ経由シテ、日本ト総テノ取リ遣リヲ為シツアルカノ如ク思ハルル。従テ其間ニ色々摩擦誤解ガ出来、ソノ為メニ日本ガ当惑スルノミナラズ、米国モ余程損ヲスルト思フ。ソレヨリモ直截簡明ニ、日本ニ向カッテ、太平洋ヲ越エテ真ツ直グニ、ブッカラレタラ、却テ物ハ黒白分明ニ裁ケテ行クデハナイカト思フ。予ハ最近ノ事ニ就テ申シテ見タイ。昨日大使館ヨリ遠カラヌ日比谷公会堂ニ於テ、大講演会ガアリ、予モソノ講演者ノ一人トシテ出席シタ。トコロガソノ一人トシテ知ル所ニヨレバ、聴衆ノ感情ハ、英国ニ対シ甚ダ良好デナカツタト見受ケラレタ。予ハ折角日米ノ関係が、最近ニ種々ノ誤解ヤ猜疑ヤヲ一掃シッツアル際ニ、米国ガ英国ノ捲添ヘニ遭フヤウナコトガアッテハ、甚ダ遺憾デアルト思ヒ、此ノ事実ヲ深ク大使ニ向ッテ考慮シテ貰ヒタイト思フ。ツマリ、カカル心配モ、今少シ英国ハ英国、米国ハ米国ト、二者ノ区別ヲ判然ツケサヘスレバ、無クナルノデアラウト思フ。

「以上ハ甚ダ差シ出ガマシイ事デアッタガ、予ハ聊カ感ズル所アツタガ為メ、大使ノ考慮ヲ求メタイト思ウテ、ワザく之ヲ申シ述ブベク出カケタノデアル」
大使ハ之ニ次デ、
「徳富君ガ米国ノ良友デアルコトハ、今更自分が云フ迄モナイコトデアル」
トテ、予ガ携ヘタル『日米関係』(“Japanese-AmericanRelations”)ノ書ヲトッテ、
「之ヲ見テモ判ルデアラウ。予モ亦タ曾テグリスカム公使ノ時ニ、日本ヲ訪問シタコトガアル。其時ノ公使館ハ多分此ノ事務所デアツタラウト思フ」
ト云フカラ、予ハ
「然リ」
ト答ヘタ。大使ハ更ニ、
「予自身大使トシテ五ヶ年、常ニ日米ノ親近ノ為メニ努力シテ居ル。今徳富君ノ御話ヲ聴イテ、大ニ参考トナッタコトヲ感謝スル。但ダ徳富君ハ米国ガ欧羅巴ヲ通シテ、日本ト交去スレト云フガ、リレハ幸ニ事実デナイ。予ハ直接毎日、日本ノ当診官更交況シブ厄、ノデアル。左様ナ心配ハ御無用デアル」
ト云フカラ、予ハ
「ソレハ承知シテ居ル。但ダ日本人ハサウ思ウテ居ナイ。又米国ニ於テモ、ソノ惑ヒヲ解クコトヲ努メラレテ然ルベシト思フ」
ト述べタ。
(主、案ズレニ、大使ハ自分ノ仕事ヲ言ヒ、予ハ米国国務省ノコトヲ言ウタデ、国務省ガ英国ト協同シテ日本ニ臨ミ、事ニ当ルノ政策ヲ言ヒ、独立シテ日本ト事ニ当ラザルヲ諷シ、九国条約ナドニ米国ガ顔ヲ出スコトノ不見識ヲ指摘シタノデアル。知ラズ、大使之ヲ悟リタルヤ否ヤ。ソノコトハ保証ノ限リデナイ)
以上息ヲモッカズ話ヲシタ。ツマリ目的通リ大使ノ説クデナク、予ノ言ヒタキコトヲ言ウタ。時間ハ午前正九時半ヨリ十時二十分マデ、五十分間デアッタ。

以上

 予は如何に考えても、日米戦争の挑発は、日本からでなく、アメリカからであると思う。固よりアメリカ人は、左様には考えぬであろうが、これは他日公平なる歴史家が、これを判断するであろうと思う。喧嘩というものは、決して弱い者から、仕掛けるものではない。如何に日本人が数字を知らぬといいながらも、日米の勢力の如何に不釣合であったか位は、知っている筈である。然るにも関わらず、なお且つ立ちあがらねばならぬ迄に至らしめたるは、その責任は誰れであるか。これを明らかにしたいものと思う。予も亦た第一回世界大戦終局当座、大正九年九月『大戦後の世界と日本』と題する一書を著述し、その中にて米国に関する一部は英訳せられて、紐育マクミラン社から出版せられている(“Japanese-AmericanRelations”)。それを見れば、予が米国に対して、如何なる意見を持っていたかという事が判かる。今更予はこの場合に於て、余計な弁解などをするを肩しとする者ではない。しかし真理は真理とし、事実は事実とせねばならぬ。要するに予は、今尚お日本の戦うたることを、義戦と信ずる者である。但だ不幸にして、日本の政治家軍人などが、陛下の御趣意を奉戴して、最善の努力をなさず、またなすを得なかった事は遺憾千万である。今日は勝者の権によって、如何なる裁きを、我等の身の上に加えられても、何等言う所はない。ただ我等が心事は、今申す通りであって、日本国民中にも、予とこの志を同じゅうする者が、決して少なくなかったであろうと信ずる者である。先ず予の言わんと欲する所は、概略以上の如きものである。要するに、日本を咎むる前に、君等は先ず己れを知る必要があるということを、申したいのである。

(昭和二十年九月二十二日午後、双宜荘にて)

頑蘇夢物語
スポンサーリンク
蘇峰をフォローする
スポンサーリンク
スポンサーリンク
徳富蘇峰ブログ

コメント

タイトルとURLをコピーしました