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八 自ら吾が愚に驚く(二)

頑蘇夢物語
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いまその証拠として左の一通を掲ぐる。
(鈴木首相ニ与フルノ書)

鈴木首相閣下 日夕御尽菜真ニ感偏二勝へス。迂生モ年齢ニ於テハ閣下二一日ノ長アリ、仍テ老人ノ心理情態ハ 聊カ能ク之ヲ知ル。閣下ニ対スル同情ノ深厚ナルハ当然二候。 天下ノ大勢及 々 乎弊船二坐シテ大瀑布ヲ下ラントスルニ似タリ。之ヲ救済スルノ道只ター。天 ノ岩戸ヲ押シ開ラキ 至尊御出現一君万民ノ実ヲ御挙行アラセラルルコト是レノミ。
今ヤ日本国ノ病ハ骨髄ニアリ。若シ今日ノ機ヲ誤ラハ独乙ノ覆轍ヲ履ムモ未夕知ルヘカラス。迂 生ハ決シテ危言激語以テ閣下ヲ疎刺聳動セントスルニアラス。惟フニ世上ノ嘉言善行美事快業所 謂光明ノ半面ハ閣下ノ熟知スルトコロ迂生ノ吸々ヲ須タス。サレトソノ半面ハ奈何。迂生ハ独自 ラ欺ニ禁へス。国家危急存亡ノ刹那二際シ惰気満々敗戦思想ハ社会ノ公私上中下/各層ニ滲透 充実ス。閣下若シ彼等カ仮面ヲ脱シソノ本音ヲ吐クヲ聞カンニハ愕然自失スルモノアラン。今ヤ 国民義勇隊ナト出来セントスルモコノナラハ若干ノ除外例ハアリトスルモ恐ラクハ烏合ノ衆ナ ランノミ。今真二国民ヲ覚醒シ国民ヲ蘇生シ国民ヲ清新活滋ニシ護国ノ勇気凜烈タラシムルノ道 ハ至尊自ラ大号令ヲ煥発シ玉フノ一アルノミ。如何ニ閣下カ千言万語シテモ今日ノ官吏ハ閣下ノ 思フ様ニハ動カス官吏簡然リ況ンヤ国民ラヤ 政府ノ信ヲ国民二失フヤ決シテ一日ニアラス。政府ト云へハ文武ヲ合シテ同様ナリ。特ニ昨今配 給一割減ノ如キ前農相之ヲ保証後農相之ヲ覆へス転瞬ノ間 掌 ヲ反ヘスカ如シ天王山ノ文句モ 亦同様ナリ。惟フニ何人カ政府二立ツモ到底此ノ国民ノ心ヲ新タニシコノ国民ノ心ヲ一ニスルコ トハ至難ナラン。然モ天日一照乾坤頓二光輝ヲ生ス。多言ヲ俟タサルナリ。迂生ハ元来対米英戦 争ノ熱心ナル主張者タル程ノカナキモソノ賛成者ニ相違ナシ。自ラ責任ヲ感スル重且緊若シ独乙 轍ヲ履ムカ如キアラハ 死余罪アリ 。故ニ身草沢ニ在ルモ其ノ深憂遠慮ハ決シテ台閣ノ諸公ニ譲ラス是ヲ以テ叨リニ僭越ヲ顧ミス誨ヲ閣下ノ左右ニ請フ区々微衷御亮察アラ幸甚。
昭和二十年七月十六

徳富猪一郎

鈴木首相閣下

これは昭和二十年七月十六日付にて、鈴木首相に与えたる一書である。当時の時局が余りに切迫 していたから、予は堪まりかね、自ら出でて卑見を述べんと欲したが、病の為めに果さず。よって 専例を以てこれを手交せしめたものである。当時予の使者は鈴木翁に手渡しせんとしたが、翁は多 忙であったという事で、鈴木秘書官にその旨を通じて渡した。而してその返事を待っていたとこ ろ、鈴木首相よりは、有難く拝見した、御趣意はよく分かったという事で、引きとったという事 を、今も猶お記憶している。もっともこれは初めて鈴木首相に申込んだのではなくして、組閣当時 より繰返したものである。初めからバドリオ内閣の首班という事に気付いたら、かかる余計な事 は、行らなかったであろう。今更愚痴を言うではないが、我れ自ら我が愚に驚ろくのみだ。

予が新聞記者として最後の文は、昭和二十年八月七日の『米国伐謀論』である。この事は既に前 に記している。それよりも更に最後というべきは、八月十一日「公論」の記者に向って『天皇親政 論』を口授した事である。該雑誌の記者上村氏兄弟―兄哲彌、弟勝彌、口授は哲彌氏へ―は、松岡[洋右]前外相の門下生であって、従前から予と松岡氏との間に、双方の連絡係というような役目 を勤めていた。予は哲彌氏の顔を見るなり、同人に向かって、松岡翁の消息を問うたところ、翁も 今度こそは、真に快復の状態であると言い、なお翁の意見を質したところ、翁は相変らず戦争一本 で直進する論である。過日も現内閣の最大有力者が、何か外交の手を打つ方法はないかという事を 聞いて来たから、今日は戦争以外に何物もないと答えた。而して松岡氏が曰く、予は必勝を確信す る。その理由は三つある。第一は日本の国体である。必ず神佑天助あらん。第二は予の直感がかく 予を信ぜしむる。第三は予が今日迄学び、且つ経験し、それによって充分なる考慮の結果、その結 論としてここに到達する。以上の三箇の理由によって、予は必勝を確信する者である、と語ったと いう事を、上村氏は伝えた。而して彼―松岡翁―は過日御礼として、宮中及び大宮御所、各宮家に も罷り出で、宮中では木戸内府とも相語り、また大宮御所では、皇太后陛下に拝謁し、東久邇宮殿 下には、稍々長時間に亘って拝謁を遂げたという事を伝え、且つ予には天皇親政論について教えを 乞うという事であったから、殆ど大体の趣意に於ては、鈴木首相に与えたと同様の意味を、歴史的 事実に照らして口述した。これも果して誌上に出ずるか否やは覚束ない。何となれば、それは前に も申す通り、八月十一日の事で、もはや万事休したる後であった。かくて予は上村氏に、松岡前外 相宛ての一書を認ため渡し、成べく急に達せん事を申添えた。右の一書は上村氏にも一読の上封緘 せよと、開封のまま渡した。これも要するに、予の宿論を述べて、松岡前外相と、希くば力を戮せ、この目的に到達せん事を、期待したものに外ならなかった。

(昭和二十年八月二十一日午後、双宜荘にて)
頑蘇夢物語
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