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三三 官界の流弊を抉る

頑蘇夢物語
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再び天皇陛下のマッカーサー御訪問について一言する。その後米軍総司令部渉外局の発表によれば、マッカーサー元帥は、天皇陛下を大使館邸の居室で御迎えした。扈従者は控室に残った。マッカーサー元帥が天皇陛下との会談の内容は、発表されないとある。これで見れば儀礼上の御訪問ではなく、我々臣民ならば、所謂る召喚を受け出頭という事であったらしく、恐察せらるる。若し陛下が訪問客として、御出でであったとしたらば、如何に戦敗した国であっても、一国の君主が御来訪あるに、我が室内で御迎えするという事は、余りに礼儀を弁まえぬ作法である。これでは天皇陛下も賀川豊彦も、殆どマッカーサーの眼からは、同一視、同一待遇されたものと見てしかるべしである。マッカーサーも、それ程の没分暁漢でもなかったから、多分これは、新聞では御自発という事になっているが、マッカーサーの方より、召喚したでなければ、少くともその意を諷したものではあるまいかと察せらるる。若し万一それでないとしたらば、陛下からマッカーサーに対し、敬意を表し給うのに、彼れの方から、それに対するだけの、敬意を表しないという事は、驚き入ったる事である。何れの点から考えても、これは至尊に対してばかりでなく、日本帝国が受取たる、最大無比の侮辱といわねばならぬ。しかるに、今日世間では、米国に媚態を呈する事にのみ夢中になって、かかる異常の出来事を、看過し去るに至っては、これ亦実に驚き入たる事といわねばならぬ。百世子孫は、この事実を何と見るや。念の為にこれを記して置く。

今日の政府は、一口にいえば、日毎夜毎に、マッカーサーより駆使鞭撻せられ、奔命に汲々としている。一たびその命令の出ずるや、忽ち面喰らって、右往左往に慌てふためき、所謂る提出したものが、相手方の注文通りでないとて、また叱られて引き退がるというような醜態で、その日を暮している。傍の見る目も気の毒千万である。大臣とか何とか、豪らそうな役目を帯びつつ、進駐軍の小使や給仕の役目のみをしては、堪まったものではない。しかし彼等は日本人に向って、飽く迄対等ではない。汝は戦敗者である。我は戦勝者である。戦敗者は服従以外何物もない。戦勝者は命令以外に何物もない。という事でやっている。即ち我等が現神として崇め奉る天皇陛下さえも、その筆法で、恐れながら待遇申上げている。如何に新聞紙面なぞで、巧まく取繕うても、事実は事実である。

話昨日の続きに復える。今日日本の官吏が、すったもんだと狼狽しているのは、実をいえば自業自得である。平生何一つ物になる程の事をせずして、つまらぬ理窟をこねるとか、縄張争をするとか、自分の立身出世を計るとかという外は、何事も為さなかった彼等は、今更ら実際の仕事を申付けられて、栃麵棒を振るのも、無理ならぬ事である。およそ日本の官界というものは、仕事の出来ないように仕組んである。無為、無策、無事、無能というが、その建前である。その中で、一人が善い事をせんとしても、忽ち他の連中が、それを妨げる。所謂る出る杭は打たれるとは、その事である。それで大臣などという者は、世間に対しては、豪らそうな顔をするが、我が省に帰れば、何一つろくな事を為し得ない。予が友人で遊信大臣となったる者があったが、彼は何事を為したかといえば、電信に「殿」という字を、加えさせただけの事を、遣っている。即ち従来は「トクトミイ一ロウ」であったのが、彼が逓信大臣となった為めに「トクトミイ一ロウ殿」と、殿の一字が加わったのである。しかるにその事も、間もなく取消された。また予の友人に鉄道大臣となった者があったが、その男は各停車場の駅名を、左書になっていたのを、右書に改めさせた。それもその後は、また左書になった事であったが、その後また右書になった。多分今度はまた左書に戻るであろう。勿論内務大臣なぞになれば、自分の仲間を引っ張って来て、従来の者を追っ払う慣例があるが、これもそれだけの事であって、所謂る内務省なら内務省の勤めという事になれば、何一つ面目を一新することは出来ない。ちゃんと黒鼠や、斑鼠や、白鼠などが、場所々々に控えていて、抜きも差しもならぬように、出来あがっている。これは文官ばかりでなく、武官方面も固より同様であった。世間では、官僚というものは、ただ文官のみと、心得ている者があるようだが、その実は武官も同様である。但だ武官は、官僚が剣を吊しているというだけの事である。それだけにまた剣の威光が、加わっているだけの事である。

曾て東條内閣の時である。新聞紙の原料が不足するとて、その筋から用紙の減少を命令して来た。ところが一夕東條首相と、東京の主なる新聞社の社長等と会食の折、それを訴えたところ、東條首相は、その訴えを道理と思ったであろう、その場で当分現状維持ということを申渡した。ところが納まらぬのは下僚の者共である。かく総理が、新聞屋と闇取引をやられては困る。かくやられては、我等の面目が丸潰れとなるとか、あるいは我等の職務が立たぬとか、随分苦情を持出したが、しかしそこは流石の東條首相だけあって、その為に然諾を取消すようの事はしなかった。しかしそれが祟った訳でもあろう。再び左様な事を、繰返す事はしなかった。それで大臣は次官に聴き、次官は局長に聴き、局長は課長に聴き、課長も亦たその課内の白鼠に聴くという事で、各省の権力は、その局課の外には、誰れも何人たるを知らない、所謂る無名氏の所に在る。彼等が頑張っているからには、通すまいというからには、決して通しはしない。通すにもなかなか勿体をつける。苦情をつける。一口にいば、只では通さぬというような事になる。予の友人に学校の経営者があった。彼が時局に鑑み、学校を経営しつつある際に、更にこれを拡張し、時局必要の文科大学を設けんと企てたが、いざ願書提出となれば、梃子でも動かぬ。そこで彼は相当機智ある者であって、その難関が、大臣にあらず、次官にあらず、局長にあらず、ある課内のある人々にある事を考え込み、それ等の者と近付く事になった。近付く為には、待合も奢らねばならず、御馳走もしなければならず、土産物も遣らなければならず、相当の金を使ったに相違はない。ところが一方に得る者があれば、他方にはそれを羨む者があって、何時の間にか、その事が刑事上の問題となって、予の友人は、刑事被告人となった。罪名は知らぬが、多分贈賄という事であったろう。ところが彼は贈賄ではない、金もやった、御馳走もしたが、それは皆な謝礼であると、申訳をした。即ち願書もその人に代って書いて貰った。またこちらの気付かない事も、その人からそれぞれ注意をして貰った。役人であろうが、役人であるまいが、御礼をするという事には、頓着のあるべき筈はないと、飽く迄抗議した。これはホンの一例である。彼は不幸にして法網に罹ったが、およそ役所と交渉を持って、当り前の手続を、当り前に通過するような事は、皆無とはいわぬが、極言すれば、むしろ除外例といってもよい程である。大抵の事は、皆な魚心あれば水心、以心伝心で動いて行って、願書なども、普通ではなかなか聴届けらるるものではない。それには急行券が必要である。急行券とは何ぞやということは、説明を要しない。

かかる団体が居て、しかもその上に腰を据えたる大学出の所謂る英才共が、出世立身一点張りで据わっているから、仕事が手につく筈はない。せめては我が局内の縄張を拡げるとか、我省の威信を増すとかというのが、いわば関の山である。その他は彼等の口癖である、浮草職業に身を婁し、早く恩給年限に達し、思う程の立身がなければ、身を転じて、横飛に実業界に飛込み、片手に恩給、片手には重役社長の俸給を取るという魂胆に外ならない。これで能率の挙がるべき筈はない。今日まで、役所の仕事というものは、素より民の為めでもなければ、また必ずしも官の為めでもない。誰が為めといえば、ただ自分が、大にしては立身出世、小にしては保身安家の為めに外ならない。かかる場合に於て、国家が死生存亡を賭けて、一大戦闘に従事するという事になり、何は兎もあれ、独逸流の統制法を鵜呑みにして、これを実行するという事になったから、その国家を挙げて、社会的にも、経済的にも、生活的にも、思想的にも、混乱状態に陥れ来ったという事は、泊に必然の勢である。

(昭和二十年九月二十九日午前、双宜荘にて)

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