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四二 驚くべき日本上下の急豹変

頑蘇夢物語
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予て戦争反対とか、当初より看板かかげた敗戦論者とか、また所謂る自由主義者とか、社 会主義者とか、共産主義者とかが、この際時を得顔に顔を出すは当然の事で、幣原や吉田な どが、我が世の如く振舞いたりとて、我等は別に意外とは思わぬ。ただ昨日まで熱心なる米 英撃滅の仲間であり、甚だしきは、その急先鋒であったとも思わるる人々が、一夜の内に豹 変して、忽ち米英礼讃者となり、古事記一点張りの人々が、民主主義の説法者となり、戦争 一本建ての人が、直ちに平和文明の主張者となったる者の多きには、流石にその機敏快速な る豹変ぶりに、驚かざるを得ざるものがある。何れの世、何れの時でも、雷同詭随者は存在 するものと思うていたが、しかも今日程それが著しく目についた例しは、未だ曾て い。これを見ても、如何に日本人が、少なくとも現在の日本人が、堅実性を欠いていた事が 判かる。即ち何事も、その時その時の調子で、始終、足は地に着かず、ただ当座々々の調子 や気分やで、動くものである事が、証拠立てらるる。これは必ずしも国民の各層ばかりでな く、戦争専門の軍人も、行政専門の役人も、皆なその通りであったと見て差支あるまい。つ まりこの戦争も、前後の見通しもつかず、大なる決心もなければ、覚悟もなく、風の吹き廻 しで、舟を乗り出したものであって、予めその到着すべき港さえ定まらず、否なその向う方 向さえも定めていなかった事が、思いやらるる。

自ら戦争の元締めとなる人々が、かかる浮足であるから、国民も同時にその通りであった と見ても致方はあるまい。恐れ乍ら大元帥陛下も、今日では万事東條がやったように仰せら るるが、宣戦詔 勅の御発表になった前後に於ては、まさか一切御承知ないということでも なく、また必ずしも御反対であらせられたとは、拝察出来ない。若し御反対であらせられた としたならば、かかる詔書に御名御璽の据わるべき筈はない。宣戦購和の大権は、至尊の大 権中の重もなる一である。まさかそれを御忘却あらせられたとは、拝察が出来ない。

元来日本人は、果してその性、即ち国民性として、かかる軽薄浮動の性格の持主である や、将た明治以来悪教育の結果、ここに到ったものであるか、その点については、ここに何 とも断言は出来ない。ただ現在の日本の国民性として、この浮足である事だけは、隠すこと も出来ねば、また拭い消すことも出来ない、我が国民の自ら暴露したる、大なる欠陥といわ ねばならぬ。

今日頻りに彼等は、日本の民主化を唱えているが、果して心からかく信じているのである か。また一切の武力を持たぬ無腰無刀の国家として、世界の文化に貢献するなどという事 を、盛んに唱えているが、果して真面目にかく信じているか。武力を除外して、文化のみに て、世界に立つ事が出来得るものであるか。少しく歴史的事実に徴して見ても、それは明白 である。ギリシャの文化は、泰西文化の根源といわれているが、ギリシャは果して無腰無刀、赤手空拳の国民であったか。スパルタが徹頭徹尾武国であった事は、いうまでもない。 ギリシャの文化の眼目といわれたるアテネ如きも、決して武を除外したる国ではなかった。 テミストクレスよりペリクレスに至るまで、何れもその武勲は赫々たるものであった。支那 に於ても、その文化の最も発達したる時代は、漢と唐であるが、漢と唐は支那に於て、その 武力の最も発展したる時代であった。武力を除外したる文化国というものが、果して出来得 べしとすれば、それは今後に於ける、新たなる試験というの外はあるまい。ここ迄には世界 の歴史に、左様な例は、絶対に無かったということが出来る。しかるにかかる事を、平気 で、朝飯前の仕事の如く、言い做している日本の有識階級は、実に驚き入たる胆玉の持主と いわねばならぬ。これは大胆でもなければ、豪胆でもない。全く彼等の軽快浮薄の浮動性 が、彼等を駆りて、ここに到らしめたるものというの外はあるまい。

昨日までは現津神として、君主に対して、上奏するさえも、不敬などといい、忠諫など は、全く臣道実践の敵であるかの如くいい做したる彼等が、今日では、平気で皇室制度の改 正などという事をいっているは、我等が全く了解出来ない点であるが、しかしこの了解出来 ない点が、平気で世の中に行われ、何人もこれに向って、疑問さえ挟む者これ無きは、これ 亦た実に驚き入たる現象といわねばならぬ。

日本の帝室は、いわばサムソンの髪毛である。その毛髪がある間は、天下無敵の大力者であったが、髪を剪られた後は、その神通自在力を失うた。若し日本に皇室が存在を絶ち、存 在しても、絶った同様の位地に立たしめ給うような事が、あったとしたならば、日本は支那 と択ぶ所なく、朝鮮と択ぶ所なく、ソ聯と択ぶ所なく、米英と択ぶ所なきは当然である。彼 等は本来皇室を持たぬものであるから、持たぬからとて、彼等は髪毛一本損をしたのではな い。しかるに我れは世界無比の皇室を持って居り、それが為めにここ迄の日本であったが、 それを失うた日に於ては、彼等は何も失うた事は無く、我はその自己存在の一大理由、即ち 日本精神の一大淵源を失うた事になるから、その損失の多大である事は、判りきった事であ る。即今米国が、若しくはその他の聯合国が、ややもすれば我が皇室制度に手を着けんとす るは、日本の急所が愛に在ることを知っている為めである。それ程迄に皇室は、日本にとっ ては重大なるものである。しかるに現在の日本人が、それを打忘れ、鸚鵡返しに、日本民主 化のみを高調するが如きは、余りにも浅薄なる考えであるといわねばならぬ。

仮りに日本から皇室を取り除き、アメリカ流の個人主義一点張りで、国を建てたとする時 には、日本の前途は果して如何になるべきものと思うや。彼等は兎にも角にも、立国以来と いうよりも、その以前から、自由主義の訓練に慣れている。個人主義の 使用方法にも熟して いる。それで彼等としては、その能率を相当に挙げている。しかるに我国に於ては、昨日剃 ったも今道心で、急にアメリカ流に転向したとて、その日から直ちにアメリカ人同様になり 得る気遣いはない。揚句は所謂る虻蜂取らずで、ただ他人の真似を為して、後から跟いて廻るというに過ぎぬであろう。その積りならば、自ら日本を布哇や比律賓と同様の位地に置く覚悟をするの外はあるまい。それについても面白い話がある。明治二十年、予が『国民之 友』を発刊の当時、予の先輩である某学者は、『国民之友』の特別寄書家の一人として、日 本はむしろこの際、思い切ってアメリカ合衆国に合併し、合衆国の一州として立つ方が、総 ての点に於て便利であろうという論を寄せ来った。当時は言論自由といわんより、無制限の 時代であって、現に田口卯吉氏が、「国を建るの価は幾何ぞ」という論文さえも掲載して、 誰れ一人苦情をいう者なき時代であったから、恐らく差支はあるまいと思うたが、予自身と しては、如何に放言高論でも、日本をアメリカの一州となすなどとは、余りに甚しいからと 考え、それを掲載せずして済ませたことがある。しかるに今日この頃は、巡ぐり巡ぐって、 また殆どこの論が、文句では同一でないが、その精神では、相異なる所なきものを、聞くに 至った事は、長生きをすれば、随分世の中には、珍らしき事に逢着するものと、自分ながら 聊か意外の感をなしている。

近き例を挙ぐるが、若し日本から皇室を取り除けたとしたら、陸海軍の所謂る特攻隊の如 きは、今後決して出で来るべき見込はあるまい。我が将官連中には、如何がわしい者もあ り、また軍の中堅所には、甚だ不感服の徒輩も少なくなかったが、その中で陸海軍の光とな ったのは、この特攻隊である。しかも彼等は、何が為めに、青春妙齢の花盛かりを、欣然と して死に赴いたかというに、それはただ大元帥陛下の御為めという一点であった。「天皇陛下万歳」が、彼等にとっては、生命の糧といわんよりも、生命そのものであった。しかるに 彼等から、天皇陛下を取り去る時に於ては、彼等も亦た人間である、命の惜いことは当り前 だ。今後は彼等の前に、何人が頓首百拝しても、若くは如何なる鞭撻を、彼等に加えても、 美酒や美人を御馳走しても、断じて彼等の心を動かすことは出来まい。日本から皇室を取り 去れば、全く仏から魂を抜いたと同様なものである。その事を知らずして、今更ら事珍らし く、民主的国家の新造などを、目論むという事は、浮薄性もここに至って極まれりといわね ばならぬ。

(昭和二十年十月十日午前、双宜荘にて)

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