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九 毎日新聞引退完了

頑蘇夢物語
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さきに毎日新聞との関係を結了したと書いたが、それは自分側の考えで、相手側では、そう簡略 に行かず。尚お重役会議を開き、その決議を齎らし、高石会長が、八月二十六日大雨を冒し、阿部 賢一重役及び小松秘書を帯同し来た。予は当初何の為めに来たかを知らず。高石氏に向って、小話 の末、何ぞ御用談があるかと言ったところ、高石氏は、「実は本日重役会議の決議を齎らして、罷 り出た次第である。社賓御辞退の事情は、先生としては、誠に御 尤 千万と存ずるから、御希望に 任かすることと致すが、さりとて社賓の事にて、辞令を差出す訳には参らず。よって不束ながら、 この文を差出すこととしたと、一通の書付と、別に一包を取出し、予に与えた。披いてこれを見れば、

謹啓 八月十五日附芳翰拝承 仕候 先生には聖上御放送を御敬聴なされたる後この上は言論 人としては告終を御自覚なされ候由御衷 情の程恐 察 仕 候えども敢て非礼を顧みず奥村社長参趨親しく御高見を拝聴するに至て生等愈々御辞意の き所以を熟解仕り茲に 謹 て貴意に 奉る事に本日重役会にて決議仕候 顧みれば昭和四年先生が社賓として弊社の為に其の御健筆を揮うに至られてより、本紙の論壇に 陸離たる光彩を加えたるは申す迄も無之先生の御励精御勉強に至ては単り世人を戦目せしめたる のみならず、内弊社同人を鼓舞せる先生の御意識なされざる功徳に至ては生等の常に感銘措かざ る所に御座 候 今先生の去らるるに際会し生等何の辞を以て先生に感謝の意を致すべきやを知ら ず 茲に一書を呈する所以は唯芳翰に答え奉り涙を揮て先生の辞意を謹諾するの已むを得ざるこ とを御報告申上げんとするに外ならず希くば生等の微衷を容れられんことを 敬白

 

 昭和二十年八月二十四日

毎日新聞社
高石真五郎
奥村信太郎

徳富蘇峰先生

他の一包は本社より予に対する謝意を表するものにして、これは昭和四年予と毎日社との間の契 約書に明記せられたる所を、実行したるものに外ならず。よって予は高石氏に向って、その好意を謝し、予が愛玩したる文房具佐渡赤玉石を以て特に甲府の名工に嘱して製作せしめたる文鎮一対記 念品として贈った。かくて愈々本式に予と毎日新聞社との関係は絶った。予と毎日社との関係は、 当初社よりの申し出には、別に年限を定めなかったが、予は聊か考うるところあって、予の方から 五年の年限を付することを申し出で、その通りにした。しかるにそれが積もり積もって今日に至 り、尚お昨十九年三月十一日鹿倉専務小松秘書を帯同し、契約延期の書類を持参し、最初五年の期 を二十年に延長することとした。当時の期限は昭和二十一年春にて結了すべきであったが、これに よって更に昭和二十四年春に及んだ。即ち二十年八月限りとすれば、約束期限が尚お足かけ五年、 正味三年九ヵ月を剰すことになっている。しかし社の方では、年限などは全く問題とせず、何時迄 も願い上げたしと、高石、奥村氏初め予に度々語ったことを記憶している。

予はこの際首尾よく毎日社との関係を終了したることを、衷心 満足に思う。実は予も優々毎日 新聞を辞めんと思いたることがあった。遂には罷めたる後の生活の準備として、予の所有したる土 地とか、書籍とか、家屋とか、荀くも徒食の費を支うるに足るだけのものは、殆ど処分し尽してい た。これは背水の陣を張って、何時でも罷めて差支なき為めの用意であった。今日毎日新聞社に は、殆ど予を迎えたる時の首脳者は存在しない。社長本山、副社長岡、専務高木などは、何れも死 した。而して最も予を迎うることに熱心であった城戸、松内、吉武等の諸重役は、何れも社を去った。その他予の同郷人として懇親であった重役の岡崎は去り、また他日は予の後継者ともなるであ ろうと思った同郷の平川は死んだ。顧 れば予は極めて心淋しく感ぜざるを得なかった。しかも予 を識らざる者は、つまらぬ陰口をきくやら、若くは予の原稿に対して、極めて不親切なる取扱をな すやら、将た予の歴史について、条約の明文を蹂躙し、勝手の取扱をなすやら、相当予の自尊心を 傷つけたることもあった。予も当初から、本山社長と同等同格の、いわば両敬の間柄として迎えら れたるものであるのに、何やら厄介者視せらるるに至っては、頗る不愉快千万であった。しかし予 が根津〔嘉一郎〕と喧嘩をして、国民新聞を去り、今また毎日新聞の重役と喧嘩して、毎日新聞を 去るということは、余りにも辛抱力が不足するかの如く思われ、適当の機会を待っていた。しかる に戦局は愈々逆運に迫り、予も必死の努力を以て、これを挽回せんと試み、その為には毎日新聞も また予に取っては欠く可らざる機関であった。同時にこれが為に、新聞の声価威信を、中外に発揚 し得たことは、いうまでもあるまい。その為めに少くとも最近一ヵ年は、毎日新聞社に於ても、最 も予を有用の社賓と評値し、予もまた毎日新聞を最も有用の機関と考定1 )、相互極めて親密の連絡を保ちつつある刹那に於いて、この機会に遭遇したことは、予に取て泊にその時を得たものといわね ばならぬ。要するに毎日新聞を引っ張って、昭和六年満洲事変以来、今日に至らしめたるは、もし これを罪とすれば、予は罪魁の一人であり、これを功とすれば、あるいは殊勲者の一人に数えられ なければなるまい。今日から考えて見れば、予が社賓として毎日新聞社に於ける功過表は、予自からこれを定むべきではないが、しかし予は決して無用無為の閑日月を送った者でない事だけは、確 実である。尚お偶然手許に左の書付を発見したから、今ここに存して置く。これを見れば、大東亜 征戦以前に於ける、予と本社との関係が、如何なるものであったかを、知るに足らん。

昭和十六年八月七日

於双宜莊

東日堤為章氏本社の命を奉じ来る対話

堤氏曰く、
紙欠乏の為め夕刊一週二回二頁にすることとなった。よってその際は、国民史掲載を止めたし。 右御諒承を乞う。

予曰く
自分も定めて左様な用件であろうと推していた。貴兄の使命に対して、予は快くこれを承引す。

堤氏曰く
誠に有難し。

予更に語を次で曰く
本来貴兄等は御承知あるまいが、予が入社せんとするや本社は予に向って、予の日本国民史編集を助成し、その為め編集局を社内に設けて、あらゆる援助を与うべし云々とのことにて、国民史 が予の入社の主なる条件の一であった。しかるにそれが愈々本紙掲載不可能になるに於ては、予 が本社に存在するの理由は、殆んど消滅したといわねばならぬ。よって今後もし左様な御相談あ るに於ては、予め予に辞職を勧告するものと同一の意味であることを御含みの上願いたし。如何 に考えても、予は歴史が東日大毎に掲載されずとなれば、予は一日たりとも本社に籍を置くべき 理由は無い。

堤氏曰く、
委細承知した。

余談
予の観るところでは、本社の幹部は、未だ如何に本社が、危窮の状態にあるかを、自覚せざるも のの如し、今や強敵はその鋒先を連ねて、本社及び朝日を目標として進撃しつつあり。本社は決 して油断すべき時でない。予の如き老輩は、あるいは本社では厄介者と思わるるかも知れぬが、 世間では決して左様に受け取らぬ。もしこの際予が本社を退くことあらば、多少の欠陥は必ず生 じ、その欠陥には必ず乗ずるものがあろう。故に本社から観れば、今日は予を退社せしむる好時 機では無い。何れその時機も早晩来るであろうが、今当分のところは予が本社に居る方が、本社 の為めに若干の強味を加うるであろう。これは予が野心あって言うのでは無い。第三者としての立場から観ても、その通りであると思う。一例を挙ぐれば、正力氏などは、予の入院中親しく存 問を怠り無かった。しかるに本社の両巨頭は、秘書課長を代理として送った以外には、全く没交 渉であった。予は別に個人として、それを何とか思うものではない。けれども本社の為めを思え ば、今少し人を大切にすることが必要である。露骨にいえば、徳富翁などを今少し大切に持ち上 げ、担ぎ上げ、同人が喜んで本社の為に働く様に仕向くる方法があるかも知れぬ。しかしこれは 両巨頭に注文するものでは無い。ただ一例を挙げた迄である。本社の高等幹部は高等政策なるも のが無いではないかと心配する為に、貴兄を友人として申述べた迄である。

また曰く
本社では我等の書いたものを、無用の長物として居るかも知れぬが、予は今日といえども世間に 相当愛読者を持って居る。若し一度び東京を一歩踏み出せば、その証拠と事実は、必らず明白す るであろう。云々

また曰く
予は今日でも理窟をいえばいうだけのものは有る。夕刊に載せずとも、朝刊に載せても良い筈で ある。紙幅が不足ならば、小説を止めても良い筈である。しかし今日は本社も多事の時であるか ら、左様な理窟は捏ねない。ただこれを最後として、この上かれこれの注文が出で来らば、予は 一考せねばならぬ。予にして若し邪推すれば、朝刊から夕刊に移したのも、その夕刊から削っ
はず
て、また掲載を減じたのも、本社が予に敬意を表したものとは考えられない。いわば出て行けが しに為したるものと邪推することも出来る。予はしかし編集の消息にも通じている。予は決して かかる邪推をする必要を認めない。ただ今後の為にかく申し述べて置く。

(昭和二十年九月一日午前、双宜荘にて)
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