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四四 御退位問題、神社と国民

頑蘇夢物語
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幣原が組閣早々、外国新聞記者へ話した要領として、放送せられたる所を聞くに、天皇陛 下は決して皇太子殿下に御譲位あらせらるることはない。また神道は必ずしもこれを廃絶せ ざるも、その弊害だけ除いて存続せしめても、差支ないと思うと語ったとある。主上に関す る一事は、正直のところ、幣原の口から初めて承わった。世間の多くの人々は、かかる事変 に際し、定めて主上には、御譲位あらせらるるであろうと考えていたようだ。さすれば、そ % の上にも聯合軍側は、主上の御責任を、追究するが如きことはあるまいと思う事がその一。
また日本国民としても、それは当然の御処置であろうと思う事がその一。何れにしても、こ の際の御譲位は、主上御自身にとっても、皇室にとっても、やがてはまた日本全国にとって も、適当の御措置であろうと考えていた。固よりこれは臣下より彼是強要し奉るべき筋のも のでもなく、全く御自発の聖慮に出ずべき事である。しかし幣原がかく明言したる上は、同 人も定めて、親しく聖慮を拝承し参らせた上の事であり、最早やこの問題は、これで終止符 を打ったものと認むべきである。予自身は、この問題について、格別強いて主張せんとする 意見もない。しかし過般新聞紙上に、東久邇前首相宮より、外国新聞記者への御回答とて掲 げられたる一文を見るに、主上は真珠湾事件には、その詳細の事は、一切御存知なしという ような事が、掲げてある。これは恐らくは、主上から米国新聞記者に御手交遊ばされたる、 御回答の意味を、東久邇宮によって、裏書されたるものであろう。
かかる問題の渦中に、主上を置き奉ることは、洵に恐懼の至りであるが、しかし主上が、 この上御在位でましませば、勢いこの問題は、再発若くは三発して来る危険なしといわれな い。しかる場合に、これは東條一任だ、朕が関知したる所でないと、仰せらるる事は、帝国 憲法の真義に照らして、認めらるべき事ではない。日本の憲法では、かかる小刀細工は、承 認せらるべきものではない。これらの手数を掛けんよりも、むしろこの際は御譲位の方が、 御賢明の措置であるかも知れない。しかし予は、元来非降伏論者であるから、降参の処置に ついては、彼是議論をする資格も無ければ、また自ら議論せんとする者でもない。

対米通告後と御諒解
天皇陛下と真珠湾攻撃
米軍総司令部渉外局八日午後四時三十分発表によれば東久邇宮殿下秘書は聯合国記者団に 対して宮殿下の次のメッセージを伝達されたき旨聯合国最高司令部渉外局長デイラー代将 に申入れた。
メッセージ内容
東久邇宮殿下は政務多端なため先週予定された聯合国記者との会見を行うことが出来ない ことを残念に思われている、総理大臣を辞任するに当り東久邇宮殿下は去る九月十八日の 記者団会見後そのまゝになっていたところの質問に対し文書を以て次のように回答された
(中略)。
【質問】真珠湾攻撃以前に天皇陛下は真珠湾攻撃の計画を知っていられたか。
答 天皇陛下は軍令部総長から作戦の一般概要についてはお聴きになっていられたが作戦 の詳細については御存じなかった。更に、 天皇陛下はかかる作戦を実施する場合には武力行動の開始以前に正式に米国政府に通告す べきものであると御諒解されていた。
【質問】天皇陛下は何時宣戦布告の大詔に署名なされたか。
答 天皇陛下は一九四一年十二月八日午前十一時三十分(東京時間)大詔に署名された。

また幣原の神道云々というた事については、その意味が判きり汲み取れないが、自分一個 の考えでは、神道は本来宗教ではない、これを宗教化したるは、神道の末流であって、神道 本来の面目は、国家が国祖を祀るという、即ち家族的国家が、祖先を祀るという事が、神道 の第一義であると思う。それで神道の祭祀は、日本に於ては、国家固有の典礼にて、これを 切り離す訳には行かない。されば伊勢の皇大神宮には、儒者も、仏者も、キリスト教徒も、 回教徒も、若くはあらゆる宗教宗派、あるいは無宗教者も、皆な参拝せぬ者はない。橿原神 宮でも、明治神宮でも、全くその通りである。若し伊勢の大神宮や、橿原神宮や、明治神宮 などを、一種の宗教の本体と見るが如き者あらば、それこそ妄誕、不着、僭越も亦た太だし きものといわねばならぬ。幣原が果してかかる立場より、返答したか否かは知らぬが、予一 個の意見として、かく言うて置く。

今日世間に流行する天理教、金光教、黒住教などの有力なる宗派、その他神道を標榜して いる幾多の宗派がある。これらは当然宗教と見るべきものであるが、我国の官幣、国幣、県 社、郷社、村社、無格社に祀られてある大小の神祇は、その土地に関係ある所謂る産土神で なければ、その地方に最も功労のある人である。しからざれば、一般的に記念せられたる、 支那では廟を作り、ギリシャ、ローマ以来、西洋では、記念碑を作り、若くは石像とか、銅 像とかを作るの類である。誰れも賀茂の葵祭とか、あるいは肥後熊本の藤崎八幡宮の随兵行列などという事を、宗教的儀式と見る者はない。日本国民の神前に礼拝する事は、大なる祖 先を崇拝し、若くは大なる偉人を崇拝するより出でたるものであって、それ以外でもなけれ ば、それ以上でもない。アメリカ人が、マウント・ヴァーノンに到り、ワシントンの墓に詣 するも、コンコードに赴き、エマーソンの墓を弔うも、皆なその心に於ては、我が国民の神 社に参拝するものと、大差なき筈だ。しかるにこれを真っ向うから宗教視して、かかるもの は国家の害となるから、処分をせよなどという事は、飛でもない見当違いといわねばなら ぬ。自分は決して、神道について特別なる研究をした者ではない。所謂る「神ながらの道」 などというものを、徒らに世間に振り廻さんとする者ではない。しかしながら、日本の神道 は、今申す通り、日本国固有のものであって、神道そのものを破壊するという事は、日本国 家の体制、国家の機構の一部を破壊するものであるから、到底これを許すことは出来ない。 如何なる町村にも、鎮守社あり、如何なる貧家でも氏神は持っている。その貧家が、法華宗 たると、門徒たると、真言たると、天台たると、将た禅宗たるとを問わず、必ず氏神を持っ ている。また仏教嫌いの儒者としては、尚更の事である。若し神道が宗教であれば、仏教家 が神社に礼拝するは、二つの宗教を信じ、二つの本尊を持っているものの如くに認めらる る。しかも日本国民の総てが、平気でそれをやっているのを見れば、神道は決して宗教では ない。国家から見れば、一の典礼であり、町村からいえば、一の習慣であり、風俗であり、 社交的隣保的の機関というを妨たげない。

(昭和二十年十月十一日午前、双宜荘にて)

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