去る九月五日東久邇首相宮の、議会に於ける施政方針御演説中に左の一節がある。 『天皇陛下に於かせられては、大東亜戦争勃発前、我国が和戦を決すべき重大なる御前会議が開 かれた際、世界の大国たる我国と米英とが、戦端を開くが如きこととならば、世界人類の蒙るべ き破壊と混乱は測るべからざるものがあり、世界人類の不幸是に過ることなきことを痛く御診念 あらせられ、御自ら明治天皇の「よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさはくらん」 との御製を、高らかに御詠み遊ばされ、如何にしても我国と米英両国との間に蟠まる誤解を一掃 し、戦争の危機を克服して世界人類の平和を維持せられんことを 翼 われ、政府に対し百方手段 を尽して交渉を円満に纏める様にとの御鞭撻を賜わり、参列の諸員一同は、宏大無辺の大御心 に、粛然として襟を正したということを漏れ承って居る。この大御心は開戦後と雖も終始変らせ らるることなく、世界平和の確立に対し、常に海の如く広く深き聖慮を傾けさせられたのであ る。この度新たなる事態の出現により、不幸我国は非常の措置を以て、大東亜戦争の局を結ぶこととなったのであるが、これ亦全く世界の平和の上に深く大御心を留めさせ給う御仁慈の思召に 出でたるものに外ならぬ』 これは予が従来語りたるところを、他の角度から裏書させ給うたるところと見ても差支あるま い。いわば至尊には、戦争の始終から、一貫して、恐らくは一刻たりとも、闘志満々という御気分 には、ならせ給う機会がなかったものと拝察する。
この頃東京より二、三の来客あって、種々の談話を聞いた。悉 く信ずるには足らざるも、また 一概に抹殺し難きものもある。従て風聞録として、これを書き留めて置く。
石渡荘太郎氏が宮内大臣となったことは、世間一般では、大蔵畑の人が、今更ら宮内省入りも、 意外だという感をしたが、実は大蔵畑の人であるが為めに、宮内省入りをしたのだ。それは予め帝 室財産の措置を為し置く為めであった。聞けば帝室財産のある部分は、今日あるを見越して、既に 瑞西に存在する、国際財産管理部とかいう所に預けてあるということである云々と。予は直ちにこ れを信ずる者ではない。但だ石渡氏の就任は、何かこの辺の事情があった為めであろうというだけ は、推察せざるを得ない。他国から引っ張って来た、ヨーロッパ諸国の帝王ならば、財産を外国の 安全地帯に蔵し置くなどということは、むしろ当り前といってもよかろうが、日本帝国の主で在ら せ給う我が皇室に於て、かかる事のあり得べき害はないと、予は飽く迄信ぜんと欲する者である。
これに関聯して、松平宮相が、宮城に敵の爆弾が落ちたという事の責任を自覚して、辞任を申出 たという事は、その当時から、予にも聊か眉唾ものと考えられた。もし宮内大臣として、責任を自 覚せんか、その以前にも辞職を必要とする場合が、決して無いではなかった。しかるに何時も頬被 りして過ごした松平宮相が、爆弾一件で辞職などするべき筈はないと考えていた。しかるに今日思 い当る事は、彼は宮相を罷め、自由の身となって、専ら宮中外交の隠れたる当局者となって、即ち 影武者として、暗中に飛躍したものであろうと、察することが出来る。
ある人の語るところによれば、東京の青山の某所に、秘密の会所あり。そこで陰謀派は額を鳩 め、会合して種々評議を凝らしたという。而して短波を以て直接に、敵国と交渉を続けていたとい う。その相手の一人は、恐らくは前東京駐◎米国大使、当時外務次官グルーであったと察せらる る。この会合者の中には、恐らくは松平前宮相が、幹事の役を勤めたかも知れぬ。語る人は、予に 会合者の人名を挙げなかったが、近衛とか、若干の外交官の古手とか、その他所謂る重臣中の某々 氏とかいうことを暗示していた。
世間では、鈴木内閣は、閣僚概ね敗戦論者であったが、独り老首相鈴木海軍大将のみは、毅然として戦争一本論者であったと、いわれている。しかし事実は鈴木翁その人が、敗戦論者の巨魁であ って、『予が屍を乗り越えて進め』とか、『徳川家康の三方ヶ原の先例を学べ』とか『戦争一本で建 て通せ』とかいうことは、単に世間を欺むく為めの、保護色に過ぎなかった。鈴木内閣の外交は、 閣僚の何人も知らず、外務大臣さえも、その手助けの役目を勤めた迄で、一切の駆引きは、悉く 首相の手に握られていたという事は、間違いない事である。首相はまた至尊とは、永き側近者とし て、極めて御親密を 辱 くする一人であり、この君と、この老臣との間には、種々の黙契があった ものと察せらるる。それで政府は、既に八月九日ソ聯の参戦の当日、絶対降伏を決心していた。九 日の閣議では、鈴木首相と東郷外相とが、閣僚の銘々に対して、誘導的質問を為し、その絶対降伏 不可を唱えたる者は、唯だ阿南〔惟幾] 陸相一人であった。而して他には安倍内相が阿南陸相に賛 成したということであるが、これは恐らくは申訳だけの賛成であったことと察せらるる。そこで何 時まで議論をしても落着を見ないから、最高軍務指導会議にかけることとした。ここには陸海軍大 臣、参謀総長、軍令部長、首相が出席することとなり。敗戦論者側では、聊か手薄と考え、平生例 なきに、平沼〔騏一郎]枢密院議長を引っ張て来た。ところが議論の結果、阿南、梅津、それに海 軍の豊田が硬派であり、鈴木、米内は軟派であり、老獪なる平沼は、明かに可否をいわず、二、三 質問をしたが、その真相は固より軟派であり、かくして三対三となった。そこで聖断を仰ぐことに なったところ、聖断は直ちに無条件絶対降伏ということになったという。しかるに無条件とはいう。
ものの、かくなる上は第一、主権の問題、第二は外国軍を日本内地に進駐せしめざる事、武装解除 は日本軍の手にて行う事、戦争犯罪者は日本の裁判所にて審判する事、その他を陸軍より持出した ところ、何れも異議にて、只だ主権という事だけに止まった。さてその問題を申入れたところ、向 う側では、進駐軍総司令官の監督命令の下に云々という、いわば山といえば川と答うる如き、こち らの質問には直接答えずして、向うの言いたい事をいって来た。そこで閣議でも、これでは困ると いう事になり、陸軍などでは、無論この回答の為めに、談判は破裂するものと、考えていたよう だ。しかるに閣議の多数は、これでも致し方はあるまいという事になり。更に最高会議を開いた が、主上はこれにて差支なしと宣い、また自ら差支なしと認むる確信を持っているとさえ宣うたと いうことで、陸軍大臣なども、絶対降伏は、決して予の所謂る君側の奸などが、企てた事ではな く、主上御自身の御考によって、御宸断あらせられたることを知ったということである。これは阿 南陸相と極めて懇意の間柄であった、陸相側近者の語るところとして、更にそれを予にある人は語 った。以上によって考うれば、内閣の外交以外に、若くは以上に、宮廷外交なるものが、行われて いた事が判かる。これはイタリアのバドリオ内閣の絶対降伏の当時にも、亦た当時イタリアの王室 サヴォイ家と交戦国との間に、宮廷外交が行われていた先例に徴しても、推定することが出来る。
且また米国側の発表するところによれば、日本から絶対降伏、ポツダム宣言に服従するとの申入「あんばい
れは、八月八日でありという事で、閣議前に既に降伏を申込んでいた事実がある。これは如何に時 間を按排して見ても、日本では閣議以前に、既に降参を、相手方には申込んでいたのではあるまい かと思う、という説もある。これ亦た一考として、聞き置く可きであろう。尚また最高指導会議であったか、若くは重臣会議であったか、その事は明白でないが、敗北派か ら、軍の代表者阿南、梅津等に向って、果して必勝の見込あるかと質問した時に、軍の方では、 『然り』とは答え得なかった。ただここで戦うて、彼等に打撃を与えて置けば、購和条件に於て、 相当緩和の方便もあろうというだけの返事をした。そこで反対派は、勝つ見込が無ければ、戦わず して降参した方が有利である。敵に叩かれて、しかる後降参するなぞという事は、不利であるとい う論法で、押し潰したということである。果してしからば、軍も亦た確信を持っていなかった事が 判かる。兎に角確信の無いと同時に、その返答も極めて拙劣であったといわねばならぬ。何故に、 『勝敗は予め知る可らざるも、皇軍の面目を保ち、日本国民の意気を、世界に示すべく、最後の一巻 戦を試みるは、当然である』といわなかったかと思う。
尚お主上は阿南陸相に対し、『陸軍大臣』と宣まわず、『阿南』と宣うて|阿南陸相は曽て至尊 の側近に奉仕し、最も御親寵を得たる一人である―切りに、硬論を拠って、絶対降伏に賛成すべく御諭しあり、決して余計な心配をするな、朕は自ら確信を持っていると宣うたということで、阿 南陸相も、それを承って、これは余程前からの経緯があった事で、決して一朝一夕の事ではなかっ たという事に考え付いたと、その側近者に向って語ったという。
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