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一一 敗戦の原因(二)

頑蘇夢物語
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昭和二十年九月二日、今日は愈々米国戦艦ミズーリ号上にて、聯合軍と日本代表者との降伏調印 の日である。これを前にして、重光外相は、懇々切々日本国民が、敗戦国民である事実を自覚せん ことを要望している。これは今度に限ったことでもなく、裏にも重光外相は、同様の言を為し、そ の為めに米国側では、流石に重光外相だと、讃辞を呈している。だが、我等はこれを聴いて、異様 に感ずる。第一は、日本国民の女子供の末までも、荀くも心ある者は、降伏の事実を自覚せぬ者は ない。これは日本国民に向って告ぐる必要ないのみならず、むしろその見当が間違っていると思 う。世の中には何事も罪は国民に在りとして、総ての罪を、何も知らぬ、また何も知らせない国民 に被せて、己れ一人涼しき顔をして居り、中には降伏を以て一種の勝利の如く心得、どうだ、乃公 がいった通り、その通りになったではないかなどと、恰かも予言者顔をして威張り返っている者も ある。彼等にとっては、日本の敗北は即ち自己の勝利であって、むしろ今日を以て祝日としている かも知れぬ。かかる者に向ってこそ重光外相の説法も無用ではあるまいと思う。且また今日の降伏 に日本を導き来たった者の中には、陸かに重光外相もその一人でないということは出来まい。外相 は東條内閣、小磯内閣の外相であった。而してその以前に、大使として英国に在り、活躍している。若し外交上に欠陥がありとしたならば、獅子の分け前は、むしろ何人よりも重光氏が負うべき ではあるまいかと思う。それを自覚しているや否やは、我等の知る所ではないが、他所事の如く、 頻りに国民を相手に説法していることは、如何にも片腹痛き仕打ちである。しかし何は兎もあれ、 今日の屈辱日である事だけは、我等も重光外相とともに、これを認むるにくかでない。但だかかる 屈辱日を、我が三千年の歴史に、初めて印し来たったことを、我等は甚だ情けなき事と思う。同時 に我等は飽く迄もその責任者について、反省を促がしたいと思う。

さて、愈々敗戦の原因に立入りて吟味せんに、数え上ぐれば山ほどある。しかしその主となる一 は、戦争に一貫したる意思の無きことである。言い換うれば、全く統帥力無きことである。これで は如何に奮闘勇戦しても、如何に特攻隊が出で来っても、勝つべき道理が無い。早き話が、この戦 時中は、敵米に於ては、政務も軍機も、一切 悉くこれをルーズベルトの手に集中していた。英国 ではチャーチルの手に集中していた。ルーズベルトは途中で斃れたが、しかもその時は既に戦争の 峠を越していた。チャーチルはポツダム会議まで居て、日本に対する降参勧告の文書には、親しく 署名している。支那に於ては、重慶政府の一切万事悉く蒋介石の手に在り。ソ聯に於ては、一から。 十迄、十から百花、悉くこれをスターリンの手に収め、今尚お収めていることはいう迄もない。し かるに我国に於ては、一切軍国の機務は誰れの手に掌握したるか。申す迄もなく、明治二十七、八年戦役に於ても、三十七、八年戦役に於ても、全く明治天皇の親裁し給う所であった。勿論日清戦 争に於ては、内外の政務は伊藤これに当り、軍機は山縣、大山、西郷を擁し、陸軍には川上あり、 児玉あり。海軍には伊集院あり、山本権兵衛あり。日露戦争の時には、政務は桂これに当り、陸軍 は児玉、寺内、海軍は山本、東郷など、各々その責任者があり、しかも首相桂は、宛かも幹事長の 役目を勤めて、一切の取纏めをしていた。これを以て政治と軍機とも足並を揃えることが出来た。 戦争と外交とも協調を保つことが出来た。陸海軍共に鳥の双翼、車の両輪たる働きをした。しかも 当時の日本で、荀くも智勇弁力の士は、その朝に在ると、野に在るとを問わず、何れもその力を効 さざる者は無かった。これは明治三十七、八年役に於て、最も然りとする所で、かく言う予の如き は、抄たる一新聞記者ではあったが、聊かその消息を知っていると自から信じている。しかるに、 我が大東亜戦争は、誰れが主宰したか。それは申す迄もなく、大元帥陛下であることは多言を俟た ぬ。しかも恐れながら今上陛下の御親裁と、明治天皇の御親裁とは、名に於て一であるが、実に於 ては全く別物である。明治天皇は、単りその職域に在る者ばかりでなく、例えば野に在る、若くは 政治の中枢以外に在る、松方、井上の如き者さえも、御諮詢あらせられ、彼等をして、その最善の 力を効さしめ給うた。而して細大洩らさずというが、中にも大事に至っては、群議を尽して、悉 くその行く可き所に行き、止まる可き所に止まらせ給うた。これは申す迄もなく、悉く皆な聖断に 依った。固より日清日露の両役でも、人と人との関係、官と官との関係に於て、多少の軋轢、摩擦、汗格のあったことは、見通すことは出来ぬ。しかも大体に於ては、今申す通り、一切の献立が 出来、一切の筋書が出来、その通りに行われて行いたのである。しかるに我が大東亜戦争は如何。 固より天皇の統帥権を干犯したる者もなければ、せんとする者もなかったであろう。また今上陛下 の励精で在らせ給うことは、隠れなき事であり、軍務にも政務にも勤しみ給うことについては、我 我はむしろ感激している次第である。しかし明治天皇の御親裁という意味に於ける御親裁は、遂に 現代に於ては見出すことが出来なかった事は、誠に恐れ多き事ながら、遺憾千万である。

元来この大東亜戦争は、満洲事変に 遡 らなければならぬ。歴史的にいえば、尚お遠く遡らねば ならぬが、姑く満洲事変を目標として置かんに、抑も満洲事変は如何にして出で来りたるか。支那 側の方は姑く措いて、日本側に於ては、当時の政府は素より関知していなかった。当時の陸軍省、 参謀本部はまた関知していなかった。然らば何人が関知したかといえば、我等よりもむしろ前に掲 げた石原将軍の如き人が、極めて能くその事情を知っているであろうと思う。本庄[繁]大将の如 きは、その功によって男爵となり、固よりそれは相当であろうと信ずるが、しかし決して本庄大将 は当時の関東軍の司令長官として、当初からこの事に関与した人ではなかったことは、いう迄もな い。極めて露骨にいえば、この事変に関係したる人々は、将官といわんよりも、佐官級の若干士官 であったと思う。彼等は事が出来れば、その勲功は上司に帰し、出来なければ、自から責任を執る積りであったと思う。しかるに一点の火は宛かも疾風の枯葉を捲くが如く、大火事となり、ここに 満洲事変として発展して来た。これからは人が勢を制するではなくして、勢が人を制し、次から次 に発展して来たのである。いわば関東軍は局部局部の人によって動かされ、陸軍省は関東軍その他 出先将校によって動かされ、内閣は陸軍省によって動かされ、かくの如くにして、首相も何事たる や知らず。陸軍大臣、参謀総長も、半分位は知っていても、他の半分は知らず。現地の主将も、三 分の二は知っていても、他の一は知らず。つまり事件が人を支配して、人は唯だ事件の跡を追っか けて行くというに過ぎなかった。かくの如くにして、宛かも藪から飛び出した兎を追いまくり、何 処迄も兎の跡を付けて追って行く内に、自からその身が何処に在るやも、判らなくなったような次 第である。

(昭和二十年九月二日午前、双宜荘にて)
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