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三二 軍官を糾弾す

頑蘇夢物語
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日本が勝つべくして勝たなかった理由の、最も主なる一に数うべきは、敵に時を稼がしめた事である。孫子が申す通り、兵の要は巧遅でなく、拙速に在りというが、況や彼は巧速、我はは拙遅では、とても勝負にはならない。日本人が機先を制したる事は、真珠湾や、マレー沖などで、その他は殆ど敵に出端を叩かれている。ミッドウェイ作戦の如きは、我が機密が先きに洩れて、敵は待伏せをし、敵を襲わんとして、却て敵に袋叩きに遭ったのである。サイパン島の戦いでも、我が飛行機が、グアム島に仲継せんとするや、予め敵はこれを待受けて、また袋叩きにしたのである。かかる事は、殆ど枚挙に違あらない。

そればかりではない。一体我が陸海軍は、何事をしていたのであるか。敵は決して反撃しないものと、見縫っていたのであるか。ラバウルだけは、兎も角も最後迄持ち堪えたが、それも敵が相手にせなかった為めであるかも知れぬ。その他は朝に一嶋を喪い、夕に一嶼を失い、その翌朝はまた一の要港を奪わるるというが如く、次から次に敵に攻略されて、遂に雪隠詰めになり、挙句は沖縄となって来たのである。例えばサイパン島なども、ろくな防備もしてなかったという事であるが、予め、敵がここを、日本空襲の基地となす事だけ位は、気が付いていても、差支ない事ではないか。それを殆どそのままに放ったらかして、いざとなっておめおめと敵に奪われ、それが一切の禍根を来していることを思えば、油断大敵という言葉は、正さしく我が陸海軍に向って言わねばならぬ。その他折角勢揃いをして、これからという飛行機を、油断の為めに、敵に一度に焼き潰されたという事を聞いているが、洵に以て感心出来ない話である。

さて飛行機々々というて、宛かも井高き小児が泣き叫ぶ如く、臆面もなく叫び散らした当局は、元来飛行機は、誰れが作るものと、考えていたのであるか。飛行機を作るあらゆる権能、資力、材料、労務、皆な悉く彼等の手の中に掌握していたのではないか。しかるに、まるで自分等は飛行機製造には没交渉であり、飛行機は全く民間のみの、専門の仕事であるかの如く喚めき立てるということは、何たる見苦しき態度であったか。足らなければ、足らしむるだけの力は、日本国中に、誰れも陸海軍以外に、持っている者はないではないか。自分が力を持っていながら、自分がその力を用いずして、而してただ世間に向って、飛行機の不足を訴うる如きは、全く以て見当外れといわねばならぬ。我が国民は、軍事予算を、一銭一厘も値切った事はない。アメリカ辺では、現大統領トルーマンの如きは、上院議員の一人として、軍事費の濫費を、逐一実際に徴して指摘し、その為めに、少なからざる節約が出来たと聞いているが、日本では、左様な議員もなければ、議会もなく、勝手放題に一任して置いた。しかるにその予算は、年度替りには、遣い切れずして、次に繰越す事は、殆ど常例となって居り、また遣い果した予算が、如何なる方法で遣い果されたか。それも実は頗る怪しきものである。元来日本の軍需品製造に必要なる材料は、殆ど陸軍と海軍とが、分け取りして、これを押さえていたのである。また彼等が押えんとすれば、その上にも押え得べき権能を持っていた。金は持っている。資材は持っている。労力に至っては、これを徴発することは、勿論容易である。また監督権を以て各会社を督励することも、彼等の権能である。何を苦んで、その不足を訴うるであるか。不足の原因は、全く彼等の仕事が緩慢であり、不能率的であったという事を証明する外に理由はない。若し陸海軍が一元化し、あらゆる力を集めたならば、決して飛行機の不足などという事に、悲鳴を揚ぐる必要はなかった事は、我等ばかりでなく、天下の人が皆なこれを保証している。しかるに陸海軍は、互に敵国外患の如く、秘密を保ち合い、民間の事業者は、官辺では全く別個の者として、立て隔てをなし政府に有り余った資材でも、これを死蔵して、それを民間の諸会社に払下げる事もせず、譲り渡す事もせず、融通する事もせず。その為めに、一方には余計なる資材が死蔵せられ、他方にはその不足に苦んで、手を空うしているという事が、往々あった。

役所の仕事振りが、如何に不能率的であったかということは、曾て予が聞く所によれば、ある軍需会社が、ある事について願書を出した。しかるにそれを受け付けたる、陸軍の主計中尉の某という者が、その会社は、平素海軍の方には、付け届けをするが、陸軍には付け届けをしないという事を根に持って、一ついじめてやれということで、その願書を、そのまま机の抽出に一ヵ月余も投げ込んで置いたという事である。それから先、それがどうなったかは知らぬが、そういう調子である。また某造船会社に、何月何日限りに、これこれの船を造れと命令したが、その会社には、資材の持合せがない。官庁には余る程あるが、それは決して融通しない。その造船所は兵庫県であったが、徳島県に適当なる山林があって、それを伐り出して使えば、それでも用を弁ずることが出来るという訳である。ところが隣国を以て蜜と為す政策で、徳島県では、材木統制会社があって、他国に持出す事は厳禁という事で、またこれを払下げても、兵庫まで持出す事が出来ない。この狭き日本に、各県毎に縄張を張って、銘々割拠主義を行っているからには、能率の挙がるべき筈はない。故後藤新平伯は、屢々十三行罫紙では困るといったが、全く十三行罫紙で、役所の仕事は、ただ机の上に文案を作り、主務、課長、局長、次官、大臣と幾十の判を取り廻って、而して後吾事成るという塩梅で、到底物になる筈はない。かくの如くにして、出来うべきものも出来ず。為すべきものも為さず、その日を過ごしていたのである。かくの如くにして、敵に克つなどという事の出来る筈はない。元来広き日本国を見渡すに、この戦争が命がけの、即ち国家の興廃存亡の戦争であるという気持で、一所懸命でかかった者が、一億人の内に幾人居るであろうか。数うるだけのものではあるまいかと思わるる程である。固より特攻隊など、洵に感激に堪えぬ下級の将校、下士、壮年、青年、時としては幼年層までも及ぶところの新日本男児もあったが、それ等を除外すれば、他の御連中は、掛け声のみにて、この貴重なる一刻千金の時間を、全く送ったのではあるまいかと思わるる。

(昭和二十年九月二十八日午後、双宜荘にて)

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