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一 敗戦空気濃化と予

頑蘇夢物語
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 昭和二十年八月十八日、即ち、今上天皇御放送の後三日目の朝書き始む。これは順序もなく、次第もなく、ただ予が現在の心境に徂徠そらいする事を、そのまま書き綴ることとする。
予は沖縄防攻戦に最も重きをき、その為めにあらゆる努力をした。しかるに当局は不幸にして、予の言をれず。ついに玉砕した。予はここにおいて万事休すと考えた。そこで予はむしろこの際、自殺して、当局に対する一大抗議を示し、一大反省を促がさんかと考えた。実は沖縄以前にも、予は自殺について、屢々しばしば考えた。実は、主上に対し奉りて、恐れながら軍国の大事につき、意見を龍顔りゅうがん咫尺しせきして、奏上せんと試み、百方その途を尽したが、東條内閣以来最近に至るまで、遂にその目的を達することを得ず。よってむを得ず、その一斑いっぱんを、内大臣府を経て上奏した。しかもそれが、何等の効果をも見るを得ず。果してそれが、御手許に達したるや否やさえも、確実に知ることは出来なかった。率直に言えば、恐れながら至尊しそんに対し奉りて、御諫争かんそう申上げたい事も山々あった。よって一死をもってこれを試みんと考えたことも数回あった。れやれやで、自殺の念は、昨年来往々往来し、実行の方法についても、彼れや是れやと考えて見た。老人のことだから、間違って死損なっては、大恥をく事となる。さりとて首をくくるとか、毒をむとか、鉄道往生とか、海へ飛込むとかいう事は、物笑いの種である。せめて立派な介錯のおのこが欲しいと思って、物色したが、遂に心当りの者も見当らず、彼れ是れ思案しているうちに、また考え直した。それは命が惜しい事でもなければ、死が恐わい事でもない。この際死んだとて、それを諫争の為めと受け取る者もなければ、抗議と受け取る者もなく、勿論もちろん反省を促がすと受け取る者はあるまい。ある者は徳富老人が前非を悔悟して、その罪を謝せんが為めに、自殺したのであろう、あるいはその必勝論が必敗の事実に対し申訳なく、懺愧ざんきの余り、自殺したのであろう。あるいはアメリカに、戦争犯罪人として引っ張らるることを憂慮の余り、気が狂うて自殺したのであろう。その他ろくでもない、思いもよらぬ沙語さご流言の材料を、世の軽薄子に向かって、提供するの外はあるまいと考え、今ではこの際は恥を忍び恥をつつみ、自分の意見を書きのこして、天下後世の公論をつこととしようと考え、ここに自殺の念を翻えしたのは、沖縄陥落後余り久しき後ではなかった。 正直のところ予はあくまで沖縄ならば、戦い抜くことが出来るが、本土決戦では、それは覚束ない、しかし敵に大出血、大打撃、大頓挫とんざを与うるだけの事は、努力の如何においては、為し得られぬことはないと考えた。是にも非にも、今やえらみちはそれより外になかった。それにしては、至尊みずから御出馬あらせられ、軍機も政事も御自身に御統帥御親裁ごとうすいごしんさいあらせらるるより外に、途はないと考え、とてもそれが実行出来るや否やは、保証し難きが、本土決戦の目的を達する為めには、それより外に道はないと考え、当局に向っても、国民に向っても、その事を力説した。
 しかるに小磯内閣以来、敗戦空気は、最も上層のある部分に濃厚であり、否応無しに、早く戦争を切り上げねば、国が潰るるなどと言い触らし、勝つ見込のない戦争を、何時迄続けても、続けるだけが駄目であるという意見で、旺んに外交工作を行る可しという傾向を生じて来た。予は予て外交工作は、勝った上の事である、負けていて外交工作をするという事は、降伏より外に手段はない。降伏が嫌やならば、勝つ工夫をせなければならぬ。勝つ工夫は、いろいろの方策もあるが、根本的方策は唯だ一つ、即ち前申す通り、至尊が神武天皇や明治天皇の御懿範に御則り遊ばされて、恐れながら御躬ら大元帥の実を表現遊ばされ、万機親裁の実を表現遊ばさるる外はないという事に帰着する事を力説した。しかし同時にこの敗戦空気を退治するの必要を痛切に感じ、その為めには優々当局にも意見を提出し、また論策を新聞にも掲げた。なお三月には『頑張讀本』なる一冊を著わして、詳しく勝つ方法は頑張りであり、頑張りは合理的に頑張らねばならぬ。而して合理的に頑4張るという事には、かくかくの方法があると、その方法について論述した。不幸にしてこれは予の手を四月三日には離れたが、今日―八月十八日――までその一行も世の中に出ることは出来なかった。話元に戻る。余りに敗戦の気分が漂うたから、予は『呑敵の気魄』の必要なることを痛論したが、それは昨年の秋と憶えている。しかし本年にかけては、それが愈々熾んになり、鈴木内閣などは、全く人によっては、バドリオ内閣であるということを語っていた。即ち降参準備の為めの内閣でなければ、降参の為めの内閣であるという事を言う者があった。自分は鈴木首相とは、直接何等の交渉はなかったが、自分に内閣顧問を委嘱し来たったから、それを謝絶する為めに、親しく東京に赴き面会した。これが後にも先にも、本年東京に赴きたる事で、それも日帰りした。鈴木首相に面会して「予が屍を乗り越えて進め」などと言われたことが、衷心より出でたる言葉でありと信じ、この内閣は兎も角も、この人だけは我等の同志であると、実は頼もしく信じ、その後も直接間接意見を申し送った。しかし敗戦気分は愈々濃厚となって来たから、今は座視すべき事でないと考え、予自ら日比谷の公会堂に出掛け、所信を披瀝せんと決心し、一書を言論報国会幹事長鹿子木博士及本多熊太郎翁に飛ばし、その賛同を求めた。勿体をつくるではないが、予は汽車に乗ることが、最近非常に苦痛である。演説をすることは勿論苦痛の甚だしきものでる。恐らくはこれが為めに、昨今漸く鎮静したる三叉神経も、再発するであろうと思わぬでもなかったが、この際は何物をも犠牲として、この敗戦空気を打破せねばならぬという事を考え、かく決心したのである。同時にポツダム会議の結果とし、日本に向かって勧降文を寄せ来たったるに関わらず、政府が先ずこれを黙殺し、また新聞がこれに対して、何等の意見をも吐露せざるを怪しみ、これには何か魂胆があるではないかと心配し、愈々講演の必要を感じ、同時に演説ばかりでは、力が足らぬと考え、八月七日『米国伐謀論』の長篇、およそ新聞に毎日五段三回分を綴り、これを登載せんとした。しかるに形勢急転し、その翌八日はソ聯の開戦通告となり、九日にはソ聯の兵が、国境を越えて来寇した。それで『伐謀論』は掲載を見合わする事となった。しかし日比谷公会堂の講演は、二十日に開催する事となり、その旨八月十二日付にて、東京言論報国会本部から、申し来たったから、予は承諾の旨を即答した。而して愈々当日は、予も最善の努力を以て、予の主張を貫通せん事を期した。
(昭和二十年八月十八日午前、双宜荘にて)
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