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二四 日本は侵略国に非ず

頑蘇夢物語
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マッカーサー元帥を初め、アメリカの国論ともいうべきは、何れも日本人に敗戦を自覚せしむるということが大切である、日本人は未だしみじみ、敗戦という事を、自覚していないといい、また我国の当局及び指導階級も頻りに鸚鵡返しに、その通りの言を繰返している。しかしこれは無理の話である。日本国民には、初めから終りまで、敗戦という事実は、大本営からも、情報局からも、新聞雑誌の報道班員からも、未だ一回も知らせていない。真珠湾以来沖縄に至るまで、勝った勝ったで四ヵ年過ごして来た。偶ま撤退する場合には、「転進」という立派な言葉を付け、また全敗したる場合には、「玉砕」という名誉ある文句を用い、国民の眼から、全く敗北という事を、払拭している。かくて最後に、絶対降伏という事が出で来たったから、一般国民にとっては、まるで天地が引くり返ったような気持をした。誰れも彼れも皆な茫然となっていた。狐に欺まされたのではないかと、我れと我が鼻を抓まんでみるような状態であった。且また鈴木首相を初め、阿南陸相その他、あらゆる軍官の人々は、本土決戦では、必ず敵を遣りつくすといっていた。中にはぼんやりぼかしていうた者もあれば、あるいは瞭きり語った者もある。その濃淡深浅は別として、本土決戦には必ず勝つものと、国民の大多数といわんよりは、殆ど九分九厘迄は、かく感じ、それを最後の頼みとしていたのである。しかもその為めに使用すべき飛行機も使用せず、派遣すべき軍隊も派遣せず。一万二千台の飛行機、五百五十万の兵士は、チャンといざ来たれと待構えいたのである。しかるにそれを使用せずして、即ち本土決戦の真似方さえもせずして、絶対降伏を申し入れたから、日本国民に敗戦を自覚せしむるという事は、到底出来得べきことではない。今尚お国民の大部分は、何故に最後の一戦を試みなかったかという事に、不審を抱いている。この不審が舞れない以上は、到底敗戦を自覚することは出来ない。今日の日本国民は、ただ米国の進駐軍が入来し、日本の軍人や官吏がその手先となって、汗だくだくとなって、使い廻され、追い廻されているのを見て、他覚的に、さては日本も敗北であるかと、気付いたようなものである。アメリカ人が何といおうと、我等は没交渉だ。ただ我国の官吏や軍人等が、国民に向って、敗北の自覚を押売りする事だけは、御免を蒙りたいものと思う。

再び、日本国は侵略国でありや否やという問題に戻る。日本国は侵略国ではない。侵略国というものは、侵略せんが為めに、侵略するものである。即ち泥坊というものは、泥坊せんが為めに泥坊する者を泥坊というのと同様である。日本国と朝鮮とは、むしろ有史以前から、至緊至密の関係があった。その事については別に語る機会もあろうが、例えば神功皇后の三韓征伐などという事も、決して侵略の意味ではなかった。九州の熊襲の乱に、当時の朝鮮が、宛かも米英が蒋介石を援助する如く、援助した為めに、余儀なく熊襲の乱を平ぐる為めには、その策源地に向って、手を着くるの外なしという理由からして、神功皇后の遠征は行われたのである。今日の言葉でいえば、全く正当防禦の戦争であって、決して侵略の為めの戦争ではなかった。
また室町時代から戦国時代にかけて、倭寇なるものは、朝鮮、支那沿岸、延いて南洋のスマトラ方面迄も進出した。これを以て日本は他国を侵略するという者もあろうが、元来倭寇の根元は、蒙古襲来に淵源する。蒙古が日本を襲い、ここに於て日本は、事実に於て、殆ど総動員をなして、ここに備えたが、文永、弘安の役終って以来は、蒙古も幾度か日本を襲わんとしたが、遂に果たさなかった。その為めに、準備したる者共は、勢い失業者となり、その為めに銘々勝手な方角に出掛けたのである。これが倭寇の初まりといってもよかろう。その後倭寇には、朝鮮では朝鮮人が参加し、支那に至っては、むしろ本家本元を凌ぐ程、支那人が参加して、倭寇の名によって、支那人があらゆる切取強盗を逞うしたる事実は、これ亦た争い難き事である。即ち王直とか鄭芝龍とかいう海賊の大頭目は、正真正銘の支那人であって、彼等がある時には倭寇の仲間となり、ある時には倭寇を向うに廻し、その時相応の仕事をしたものである。また豊臣秀吉の壬辰役なるものは、当初から朝鮮を征伐する筈ではなかった。恰かも蒙古軍が、朝鮮を手引として、日本に攻め入らんとしたる如く、秀吉も亦た朝鮮を案内者として、明に向って交通を求めたのである。秀吉の目的は、支那と全面的の貿易通商を求めたものであって、いわば水師提督ペルリが、日本に来たのと、殆ど同様の目的であり、その手段も亦た同様であった。ところが朝鮮がこれに応じなかった為めに、遂に武力を以てその目的を果たすこととなって、朝鮮征伐は出で来たったのである。しかし当時の欧羅巴は、既に武力を以て、東亜に臨み、今日の比律賓当時の呂宋などは、既に西班牙人や葡萄牙人が、その手を着けていた。秀吉も亦た世界的この膨脹の気運に刺戟せられて、是に出でたるものであって、日本人は、いわば欧羅巴人の先例に従い、その蹤を追うたるものに過ぎない。若し日本人が初めから、侵略的国民であったならば、かかる手後れを為す迄もなく、欧羅巴人に先んじて、各方面に手を出したであろう。秀吉でさえも、今申す通りであれば、その他の人々は知るべきである。
また維新以後、明治六年の征韓論の如きも、本来は朝鮮と平和的交通を開くに在ったが、朝鮮人がその国書を冒潰し、我が使節を侮辱し、国家の体面上堪忍が出来ぬから、これを討つべしという論と、否それは大早計である、先ず改めて使節を出し、その使節に対する彼の方の出方如何によって、和とも戦とも決むるがよかろうというのが、西郷隆盛の議論であった。それさえも閣議では否決せられた。若し日本国民が好戦国民であり、また侵略人種であったなら、明治六年の内閣破裂などのあるべき筈はなかった。何れかといえば、日本人はむしろ臆病という程に、平和愛好の国民である。

例えば樺太の一件でも、4人が横車を押して、飽く迄樺太全体を我物にせんと欲し、そこで日本もこれを南北に中分せんとしたが、それさえ露人が異議を生じた為めに、この上は詮方なしとて、千島と樺太を交換したのである。いって見れば、千島も樺太も、当然日本に属すべきものであり、地理的から見ても、歴史的から見ても、将た経済的から見ても、誰れも異存の無い所だ。千島樺太交換なぞという事は、日本の物を以て、日本の物と交換したようなものであって、外交の拙劣も、ここに至って極まるといってもよいが、しかし平和的日本人にとっては、それさえも賢明の方法として、若干の反対者はあったが、一般には受け入れられた。二十七、八年の役〔日清戦争」は、清国が朝鮮を占有し、日本を除外せんとしたる結果から起り、三十七、八年の役〔日露戦争〕は、露国が朝鮮の過大半を占有し、日本を排除せんとするより起ったものであって、その歴史は今ここに予が言を繰返す必要はない。当時の支那も、当時の露西亜も、世界では皆な日本にとって、勝ち目の無い大敵であり、剛敵でありと認めていた。若し日本が侵略国民であったならば、かかる危険なる戦争を試みる筈はなかった。しかし両つの戦争俱に、日本自衛の為めに、活きるか死ぬるかの問題であったから、座して滅びんよりも、進んで戦うに若かずと考えて、やったのである。その意味に於て、今度の大東亜征戦も、亦た同様である。但だ前の二者は、幸に勝利を得たが、今回は絶対降服をする迄に立到ったのである。しかもこれは日本の立場として、自業自得であるから、我等は決して、これについて、何等勝った国を、恨むることもなければ、咎むることもない。ただ若し恨むべきものがあったならば、この戦争を敗北に導いた当局者である。しかしこれは内輪の問題であって、世界に持出す問題ではない。我等自身としては、日本は尚お戦う余力を持って居り、この余力の存する間は、戦うて見たいものと考えていたが、それが実行の出来なかった事は、今更ながら遺憾千万といわねばならぬ。何れの点から見ても、日本国民は、好戦人種でもなければ、侵略国民でもない。
これは我等が彼是れ自国を弁護するでも何でもなく、歴史事実が、明々白々に、これを証拠立てている。今少しく日本国民が、好戦人種であり、侵略的欲望があったならば、まさか今日に於て、かかる惨めな境遇に陥ってはいなかったろうと思うが、宛かも長脇差の博徒の真ん中に、風流爛雅な紳士が立ち交ったようなものであって、余り綺麗に、余りお立派であった為めに、遂に今日では、つまらぬ状態に陥り、却て長脇差の連中から、貴様こそ博奕打ちの大親分であるなぞと、柄にもなき名号を付けらるるに到った事は、笑止千万といわねばならぬ。

(昭和二十年九月二十四日午後、双宜荘にて)

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