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二七 朝鮮及び台湾との別離

頑蘇夢物語
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朝鮮について一言する。朝鮮と日本とは、地質学者の語る所によれば、従来は地続きであったが、陥没して日本海が出来、互に海を隔てて相望むこととなった。しかし日本人種と朝鮮人種とは、本来同一人種である。固より双方とも混合人種であるから、十から十まで、総てが同一とはいわれない。先ず日本の人種について語るに、ある者は今日の日本人は昔から日本に住んでいたという者がある。ある者は、黒潮に乗って、南方からやって来たという者があり、または北方の大陸から、海を渡って、やって来たという者もある。予の見る所によれば、三者ともに若干の真理を持っていると思う。朝鮮人種も亦た然りで、朝鮮には、漢の武帝以来、漢人種の植民したことは、今尚お痕跡が明白であるが、その以後に於ても、漢種が朝鮮の要素となっている事は、間違いあるまい。また北鮮地方は、所謂る穢】即ち人種であって、その南方は所謂る我が大和民族と同一のものが、大部分を占めているいを容れない。日鮮一元という事は、政治的に製造したる文句でなくして、学術上の根拠ある断定であると信ずる。日本海沿岸の主なる神社は、皆な朝鮮系統の神様である事は、誰れも疑う者はない。また日本海沿岸の人種は、その容貌に於ても、朝鮮の慶尚全羅方面の人と、殆ど判別し難きものが少なくない。従て日本と朝鮮とは、本来親類の国であって、日本が朝鮮を併合したという事は、米国が布哇や比律賓を併合したり、英国が香港を併呑したりするのとは、頗る趣を異にしている。この事は朝鮮人自身も、よく承知の事であろうと思う。

さて朝鮮であるが、朝鮮の歴史を通覧するに、朝鮮は未だ曾て完全に、その半島を挙げて、独立したる歴史を持っていない。部分的には一寸独立国の如きものが出来たこともあるが、それも束の間に、他に併合せられている。要するに朝鮮に対しては、三方の圧力が常に付纏うている。漢民族の有力なる場合には、漢民族がこれを支配し、北方民族の有力なる場合には、北方民族がこれを支配し、日本の有力なる場合には、日本がこれを支配することになっている。唐の時には日本と唐とが朝鮮を争い、唐が日本を半島から放逐した。宋の時には、ある時は宋に属し、ある時は契丹に属した。元の時には、蒙古の勢力が全半島を蔽うて、元の手引を朝鮮が為して、所謂る蒙古襲来も、朝鮮の手引によって出で来った。壬辰の役は、支那と日本とが朝鮮を争うて、日本が引揚げた。二十七、八年戦役は支那と日本との競争であり、三十七、八年には北方の勢力たる露国と日本との競争であった。朝鮮の併合は、歴史的に見れば、極めて自然の事であって、朝鮮が初めて開闢以来、その安心立命の地を得たということが出来る。固より日本の統治の為方に付ては、相当ずきものがあった。それは日本人は、永い間島内に引込でいて、かかる素養もなければ、経験もなかった。寺内総督の時代に、『善意の悪政』などという言葉が出で来たったのは、朝鮮人の口からでなくして、日本人の口からであった。しかし日本の統治によって、初めて朝鮮には、政治らしき政治が出で来たった。論より証拠、殆ど眼に青き山を見なかった朝鮮の山々は青くなった。また従来八百万石が最上限度であった米産が、今は二千万石を超過するに至った。朝鮮人の生活の向上、また資産家の増加、全く面目を一新している。不平を言えば数限りもないが、愈々朝鮮が一切合切日本と同一となり、朝鮮と日本の関係が、英国と愛蘭との関係でなく、むしろ英国と蘇格蘭とのように、混和し来ることは、今後十年を俟たぬ場合であった。

しかるにこの際独立という名義で、朝鮮はソ聯と米国との間に、南北に分割せられた。仮りに朝鮮が、完全に独立したとしても、北方の勢力か、若くは漢民族の勢力か、しからざれば海洋より来る勢力かに支配せらるる運命は免かれない。今日は日本の代りに、米国がやって来たのであるが、独立の名に於けるこのソ聯と米国の分割政治は、果して如何なる幸福を、朝鮮に齎らすであろうか。今日の朝鮮について、最も気の毒に思うのは、朝鮮から逐い出されたる日本人よりも、日本と絶縁して、新たにソ聯と米国を迎えたる朝鮮人である。世の中には万世の太平などという、目出たき文句を拒り出して、独り悦に入て居る者もあるようだが、万世の太平は愚か、東洋の禍乱は、これからといっても、差支なかろうと思う。洵に以て気の毒の至りである。

日本と台湾との関係についても、支那人は日本が台湾を奪ったというが、馬関条約の結果で譲り渡されたものであって、若しそれを支那に回復せねばならぬといわば、それよりも何故に、香港を英国から回復しないか。何故に内蒙古及び即今露国の領土となっている黒龍江一帯の地を回復しないか。何故に西蔵を回復しないか。殊に可笑しき事は、支那は失地回復といって、仰山に叫び、澎湖島まで回復しつつ、内蒙古の独立を許し、その名義で内蒙古をソ聯に譲渡し、西蔵の独立を許し、その名義で西蔵を英国に譲渡し、満洲の共同経営を容認し、その名義によって、満洲の実権を、殆ど挙げてソ聯に譲り渡したが、洵に以て驚き入たる話である。元来台湾は、支那が自から『化外の地』と称して、台湾に対しては、責任は持たぬというから、その為めに明治七年の台湾戦争は出で来たったのである。また実際戦国時代には、日本人も台湾に赴き、徳川氏初期迄は、日本の船舶が台湾に寄港し、台湾と通商していたのであって、万更ら日本と台湾とは、無関係ではなかった。台湾に拠りたる鄭成功は、日本婦人の腹から出でたる漢であって、その鄭成功の子孫の後を、清国が引受けたる迄の事である。元来薩摩から、奄美大島列島を経て琉球に到り、琉球から台湾に到る、この飛石伝いは、地勢から見ても、当然日本に属すべきものであって、日本の勢力が、これに波及する事は、当然過ぎる程当然である。李鴻章などは、台湾を割譲する時に、御所望とあれば譲り渡すが、貰い受けても、貴国の利益にはなるまい、却て土匪とか、疫病とか、あらゆるものに悩まされて、厄介物を引受くる事になるかも知れぬなぞと、捨台詞を言った程であった。しかるに日本がこれを引受けて、土旺を平らげ、不健康地を健康地となし、漸く日本の宝庫となった暁に、熨斗を付けて、これを支那に返上するなどとは、洵に以て日本人としては、お目出たき極みであるが、これも亦た前後無分別に、絶対降伏を、無我夢中に取急ぎたる結果と見れば、致方なき次第であろう。

(昭和二十年九月二十六日午前、双宜荘にて)

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