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二五 日本の地理的条件

頑蘇夢物語
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日本国は自然の勢に放任すれば、とても自給自足は出来ぬ。豊葦原瑞穂国といって、世界第一の天恵に浴したる国であるかの如く語るが、冷静に考うれば、決してその通りではない。気候は温和であるといい得るが、国を挙げて湿気多く、外国人にとっては、決して健康地ではない。土地が豊饒であるといっても、それは部分的の事で、細長き国の中央には、それを縦断する大なる山脈が走り、時としては、それが重複し、また処々に於て山脈が直角的に、若くは鋭角的に、それを横断している。一口にいえば、日本は山を下れば海となり、河を上れば山となるという地勢で、平原といえば、関東平原、奥羽の平原、近畿の平原、若くは九州の平原など若干はあるが、それでも大陸地方に比すれば、手の平同様である。それで耕地は山嶺までも開け、石に動き雲に耕すという言葉は、日本では決して形容詞ではない。如何に工夫しても、大農などが出来る土地柄ではない。
また文化的今日にとって最も必要なる石炭、石油、鉄、銅その他の鉱物などは、伊太利程ではないが、最も稀少である。単に生活だけが自給自足の出来ぬばかりでなく、生活を向上するのあらゆる物資は、他にこれを仰がねばならぬ。例えば豆は満洲に仰ぎ、棉は印度に仰ぐという如く、日本の重工業ばかりでなく、軽工業さえも、殆どその原料を他に仰がねばならぬ。しかるに兎も角それが無事に経過したのは、畢竟人為的に人口を制限した為めである。それは徳川氏時代に於て最も太だしかった。徳川氏は農民を、生活といわんよりも、むしろ生息という程度に止どめて置く政策を執った。家康のブレーン、トラスト本多佐渡守の著作と称する『本佐録』を見ても、百姓は余りに貧乏せぬよう、納税だけはして、生きて行くように、また余りに富まないようにという事を、原則としている。その為めに、必然の理由よりして、自然に産児制限が行われて来た。これは百姓ばかりでなく、士族の間にも、行いわさきやのすけわれて来ていた。現に岩崎弥之助が、兄弥太郎の為めに、身を粉にして働き、自らその分け前を求めなかった理由の一として、予が聞く所によれば、既に弥之助氏は間引かれる所であった。ところが兄弥太郎氏が、自分は別に弟も無いから、是非これだけは助けて呉れといって、その為めに弥之助氏は、この世の光を見ることとなったのである。その恩に感じて、かく兄の家の為めに、献身的に働らいたのであるという事を聞いた。また予が先輩山田武甫翁の如きは、自分は間引かれ損こなって、偶然にも生きている者であると、語られたことがある。山田翁は牛島家の二番児であったが、後には山田家に養子に赴いた。日本はかくの如くにして、人口を制限したから、徳川三百年間は、殆ど大なる人口の増減も見ずして経過した。ところが明治維新後になって、明治十年より二十年近くまでは、日本の人口は三千五百万ということであった。
予の少年時代、予も演壇に登って、「三千五百万の同胞」なぞと言った事がある。また木戸孝允の詩にも、『三千余万奈蒼生』という句がある。ところが今日は、朝鮮台湾等を合せ、一億という数字に上り、内地のみにても、七千万を超過し、全く三千五百万の倍となっている。これは従来の制限を撤廃したる結果といわねばならぬ。かく人口の増加したるのは、いわば人口の捌け口を発見したるが為めであって、また人口の増加と共に、その捌け口を発見する必要は、益々加わっている。今日では先ず一百万の人口増加は間違いなきものであって、それが鼠算に進んで行けば、その増加の程度は、恐らくは北米合衆国を凌駕するとはいわぬが、肩随するに至る程のものとなったであろうと思う。かくの如く日本は、生活にさえ自給自足が出来ぬ国であったから、これが世界の空き間隙き間を見付けて、割込み入込むことは、已むを得ぬ次第である。侵略などという言葉は、自分に食うだけの物は持って、尚おその上に物を欲しがるものをいうことであって、食えぬから何処かに食を求めに行く者を称して、侵略なぞという言葉は、洵に事実を謳うるものといわねばならぬ。

日本が国が狭く、地形も地味も、その国民を養うに不足して、食うに困る状態である事は、世界は皆なよくこれを知っている。しかるにその日本人が、世界の何処に行っても、やがては日本人入る可らずとして高札を立てられ、一切合切その財産をも取上げられ、日本人出て行けというような待遇を受けている。布哇の砂糖畑や、珈琲畑は、誰れが作ったか。加州の砂漠を楽園となし、あるいは馬鈴薯、あるいは玉葱、あるいは葡萄その他の果物、あるいはあらゆる草花類などを栽培し、アメリカ人に供給したのは、誰であるか。カナダの木材若くは漁業等に貢献したるは、誰であるか。しかるに彼等は、働くだけ働き、作るだけ作った上に、一応の挨拶もなく、逐っ払われる如き状態に立ち到ったのだ。しかしアメリカにも物事の分暁った漢も居って、テオドール・ルーズベルトの如きは、米国も両米大陸に「モンロー主義」を布くから、日本も東亜に於て「モンロー主義」を布くべきである。アメリカに日本人が来て、仕事をすることは、御免を蒙むるが、東亜にて仕事をする事には、何等異存もないから、どうぞその積りでやって呉れ、というような話を故金子〔堅太郎]伯爵にしたという事を、予は伯爵から直接聞いたことがある。金子伯として、まさか聞かない事を聞いたという筈はなく、またルーズベルトとしては、言いそうな事であるとも思う。
日本は決して満洲を横領せんとするではない。ただ満洲に於て、三十七、八年戦役によって、条約上得たる所の権益を、そのままに実行せんとしたるに外ならない。しかるに支那側では、種々の苦情を並べ、張学良の時代となっては、最早や満洲に於て、条約上の権益は蹂躙せられ、この上は日本人は、皆な鞄を提げて、日本に舞い戻る外はないという事までに至った。その極所が即ち満洲事変の起りである。予の如きも、当初満洲から総代として来た人々に面会し、その陳情を聴き、頗る同情したが、今更慰諭の言葉に窮したことを憶えている。自分の土地で食って行けぬ国は、日本ばかりではない。英国の如きも、交通が二週間停まれば、倫敦市民は飢餓に瀕するというではないか。しかるに英国の如きは、殆ど世界の三分一を、その大帝国の内に抱え込んで、それで今日の状態を続けている。しかるに我が日本は、今度は朝鮮、台湾、樺太、琉球さえも奪われ、満洲からは逐い出されるという状態になっては、如何にすべき。三千万の日本人でさえも、日本内地の急を行うことが出来ずして、徳川幕府の時代にも、密貿易が行われたり、あるいは対馬を基地として、朝鮮から穀物を取入るるとか、琉球を基地として、支那から物資を取入るるとか、随分手の込んだる紆余曲折の道を辿って、若干外国との交通もすることが出来た。しかるに人口が当時に倍して、缶詰にせられたからこそ、このままで行けば、共食いどころではない、餓死することが当然の結論といわねばなるまい。餓死せぬ為めには、必然的に人口も制限せらるるであろうが、兎に角予の見る所では、日本からあらゆる領土を剥奪したる事は、人道問題の上から見ても、原子爆弾以上の非人道ではあるまいかと思う。かかる事を容易に受け入れたる我が当局者は、如何なる成算あったか。自分さえ生きて居れば、国民全体は餓死しても構わないという料簡であったか。また七千万の人間を内地に缶詰にして、これを完全に生活せしむる方便を持っているか。何れにしても、予に於ては領会の出来ない話である。

(昭和二十年九月二十五日午前、双宜荘にて)

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