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三七 真の自由主義、首相宮とマ元帥

頑蘇夢物語
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マッカーサーも、追々とその爪を出して来た。初めから茨木童子〔酒呑童子の手下〕では なかったが、いよいよ茨木童子の本色を示して来た。この上は何人が内閣を組織しても、た だマッカーサーの御意を奉行するだけに外ならない。東久邇宮などは、それにしては聊か勿 体なさ過ぎる。幣原位が恰好であるかも知れない。元来マッカーサー及びその幕僚は、盛ん に自由という事を振り廻すが、その自由は、自分等の縄張を除外したる自由であって、自分 等の縄張には、一指を触るる事さえ許さない。若しこれが自由という事ならば、東條内閣も 亦た自由主義者であったと、いい得ない事もない。何となれば、東條内閣も、自分の縄張以 外は、勝手に議論をさせたからである。要するに自由という事も、軍閥若くは封建的という 事も、互の立場によっての話である。言論の自由という事を、人間が空気を呼吸して、生き ているように、必要だという程痛感しているマッカーサーは、事少しく聯合軍側に渉れば、 忽ちこれに向って、厳重なる制裁を加えている。現に同盟通信社、及び東京の有力なる、若 干の新聞社は、発売を停止せられたばかりでなく、現在では、その記事の印刷以前検閲を、 命令せられている。これでは自から自由主義の敵と名乗る、東條内閣と、相距ること幾何ぞと、いいたい気持ちがする。要するに東條内閣は、右の手は勝手に動かして宜いが、左の手 は動かすことは出来ぬといい、マッカーサーは、左の手は勝手に動かして宜いが、右の手は勝手に動かすことは出来ぬという。東條内閣が、勝手に論議せよといった目標は、マッカー サーでは、一切鵜の毛程も、触るることを許さず。マッカーサーが勝手に論議せよ、否何故 に今少し思い切って論議せぬかといって居る所は、東條内閣がまたやかましく、それに触れ ることを、許さなかったというに過ぎない。本当の自由主義というものなら、ミルが「自由 の理」にて論じた通り、如何なる異端邪説でも、互に切磋琢磨し、他山の石としてこれを論 ぜしめ、甲論乙駁論議の結果、自らその中正に帰着することを、求めしむべきである。聯合 軍側に不利なる事は、一切言わせないという事では、自由主義が泣くであろう。今日マッカ ーサーの、日本で実行せんとする自由主義は、全く自由主義の贋造物といっても、差支ある まい。自分は自由主義者ではないが、自由主義の何物たる事だけは、よく知っている。

東久邇宮内閣も、哀れ一ヵ月半の寿命であった。御苦労と申すの外はない。予は宮殿下を よく知ている。相当気骨もあれば、意地もある。また茶目気味もある。由来宮は反抗児とし て、その幼少時代より、壮年時代を過ごさせ給うた。その為めに、皇族として雲上に在らせ らるるが、その気分は決して宮内省気質ではない。むしろその反対である。巴里に十年内外 も留学あらせられたが、如何なる事を学んで帰られたか、よく判らぬが、下情には相当通じ て居られることは、間違いない。随分官僚気分には、長い間悩まされて来られたから、官僚 気質を打破することは、心中頗る愉快とし給う所であった。それが新たなる型破りとなっ て、議会の演説や答弁、内外新聞記者との対談、また殊更に天下に向って、宮宛ての投書を求めらるるなど、普通の官僚あがりの、若くは政党あがりの総理大臣では、一寸出来かぬる 芸当もなされたようである。しかし今後日本国を如何に指導すべきかという事については、 恐らくは十分の見識もなく、目途も立っていなかったではあるまいかと思う。ただ出来る限 り、当座の難局を切抜けたいという考えは、階かにあったに相違ないと思う。しかるにここ に大なる難関が二つある。如何に宮が大声疾呼しても、官僚の城壁は、依然として存し、一 切劫かすことは出来なかった。これは東條内閣も同一であって、東條大将も独楽の如く、た だ一人で廻わっていて、その周辺は一切動かなかった。宮も亦た要するに、その覆轍 の外はなかった。打っても叩いても、官僚は動かない。思うに流石の宮も、これには頗る当 惑せられたであろう。

ある意味に於ては、マッカーサーは、宮にとっては、大なる推進力であったかも知れ 東條内閣の時には、誰れも東條に加勢する者はなかったが、宮の内閣には、マッカー が、大なる後楯となって、頻りに鞭撻を加えたのである。恰かも宮が汗を垂らして漕 られる時に、大なる順風が吹いて来たようなものであって、宮の力よりも、マッカー 力で、官僚の城壁は、これを打破することが、出来たかも知れない。ところが好事魔多し で、この順風が程よく吹いて呉れればよいが、やがては船を推進するではなくして、船その
ものを顛覆させねば已まぬ程の力を以て、吹いて来た。順風ではなく、疾風となり、烈風となり、颱風となり、颶風となった。余りに薬が利きすぎて、遂に東久邇内閣も、マッカーサーの為めに、往生を遂げねばならぬこととなった。

東久邇内閣総辞職の直接理由として、朝日新聞に掲げたものは、極めてその要領を得てい る。朝日新聞は、東久邇内閣の国務相にして、同時に書記官長であり、いわば内閣の総支配 人緒方竹虎氏の古巣であるから、最もよくこの内閣の真相に通じていることは、当然過ぎる 程当然である。今その一節を挙げて見るに、

『首相宮殿下は、次の総選挙の後に最大の政党による内閣の出現を予想され、それ迄は内 閣の改造を行ってでも国政処理の大任に当る御決意であった。ところが四日聯合国最高司 令部より帝国政府に宛た政治、信教並に民権の自由に対する制限の撤廃に関する覚書によ り首相宮の御決意は一変した。辞職の直接の原因としては覚書の要求通り天皇陛下、皇室 制度に対する自由な討議に関する制限を撤廃する事はこの内閣としては到底実行し得ない こと、及び内務大臣以下全国の警察首脳部の罷免及び全特高警察機関を廃止しては国内の 治安確保に責任がもてないという点にあると見られる』(十月六日付別項朝日新聞記事参 照)

流石の宮も、今度という今度の要求には、全く当惑せられたものと拝察せらるる。大抵の 胃の腑は消化が出来たが、マッカーサーの今回の御馳走だけは、流石の宮も、到底呑込むことが出来なかったと思う。これは我等も全く宮殿下に御同情を申上げる。しかしマッカーサ ーの言う事は、無理でもなければ何でもない。既に無条件降伏で、民主主義の助長を、唯一 の目的とする事を承諾したる以上は、マッカーサーの覚書は、むしろ当然とすべきである。 我等はこれに止まらず、尚おこの上にも注文が出で来るであろうという事を疑わない。しか るに世は様々のもので、かかる無条件降伏を断行したる鈴木内閣を、近代に稀なる、国家に 功労ある内閣と、推称する者がある。

(昭和二十年十月七日午後、双宜荘にて)

(参考)昭和二十年十月六日「朝日新聞」
治安確保の問題と
皇室への自由討議
内閣総辞職の直接理由
東久邇宮内閣は八月十七日終戦の善後処理を最高使命として発足して以来、聯合国軍隊の 本土進駐、我が陸海軍の復員等の終戦事務を円滑に遂行、その間よく国内の治安を維持 し、かつ民主主義日本の再建に必要な基本的諸施策についても検討、速度不足の憾みはあ ったが、順次実行に移してきた。終戦事務の一段落により内閣の任務は終了したとの理由 で内閣の更迭を要望する声もあったが、適当な後継内閣の出現も期待し得られなかったの で、首相宮殿下は次の総選挙の後に最大の政党による内閣の出現を予想され、それまでは内閣の改造を行ってでも国政処理の大任に当る御決意であった。ところが四日聯合国最高
司令部より帝国政府に宛た「政治、信教並に民権の自由に対する制限の撤廃」に関する覚 書により首相宮の御決意は一変した。辞職の直接の原因としては覚書の要求通り天皇陛 下、皇室制度に対する自由な討議に関する制限を撤廃することは、この内閣としては到底 実行し得ないこと、および内務大臣以下全国の警察首脳部の罷免および全特高警察機関を 廃止しては国内の治安確保に責任が持てないという点にあるとみられる。更に根本的な理 由としては組閣以来聯合軍総司令部との連絡が不十分で司令部の意向と内閣の施政の動向 との間に相当の開きを生じた事が挙げられ、之が最近に至って判然として来たことによる ものである。ここに東久邇宮内閣は組閣以来五十日にして退陣した。

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