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二  陛下の玉音を謹聴して

頑蘇夢物語
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予は初めから、日本が愈々駄目とならば、ソ聯は必ず出で来ることと確信していた。それで沖縄で米国を撃ち攘えば、ソ聯も必ず急に日本に出かけて来ることはあるまい。むしろ沖縄でアメリカを撃ち攘った後には、此方から先手を打ってソ聯に交渉し、何とかその間に外交的調略の出来る余地があろうと考えていた。しかるに沖縄をみすみす米国に渡した上は、ソ聯も必ずやって来るに相違あるまい。しかしそれには尚お打つ手がないとはいわれないという事を、松井〔石根〕大将と相語った事は、八月の六日であった。しかるに八月九日、田中〔隆吉〕少将の宅に炭焼きの練習に出かけ、午頃帰宅したところ、東京から電話にて既にソ聯越境を報じて来ていた。よってその旨を松井大将にも告げ、重ねて松井大将の来話に接して、予の意見を述べた。それは事ここに到っては、極めて面倒である。しかし満洲軍に三ヵ月間時を稼がせ、その間に海陸両軍に於て蓄え置きたる総ての力を、一度に出して、勝敗を決すべきである。その以上の事はその後の成行に任かせ、兎も角も彼れに一大出血を与うべきである。彼れが出血を恐るる事と、速かに戦争を切り上げんとする事とは、我れが最も乗ずべき彼れの弱点である。兎も角も我等は戦わねばならぬ。戦う以外に国運好転の途はない。万一戦い利あらずとするも、頑張るだけ頑張れば、自らその間に於て行うべき途は開けて来る。敵は戦争を切上ぐる事に跳いている。その為めにあらゆる手段を用いているのである。手段にのみ恐怖して、跳いている事実を看過するは、全く彼れの策に乗るものである。

尚また六日広島市、八日長崎市に使用したる原子爆弾については、我れに取って思い掛けなき大敵ではあるが、敵もこれを焼夷弾や爆撃弾を使用する如く、手軽く使用し得るものではない。これが為めに危険率は増加するも、決して日本国土が全滅する如き心配はない。何れにしても、我が飛行機は、海陸合すれば一万台だけは準備してある筈である。陸兵の如きは、訓練を経たる者内地に五百万、支那に百万、六百万の兵が厳然として存している。それに加うるに、義勇戦闘隊がある。海軍は既に優々戦かったが、陸軍は所謂大仕掛の陸戦なるものは、未だ試みたる事はない。何れも拳を握ってその時機の到来を待っている。即ち今日がその時機である。これ迄の申し訳には本土決戦の為めに、必要であるから、サイパン島も、硫黄島も、沖縄島さえも、顧るに進なかったという訳である。今度は実にその決戦を試ろむべき時機が到来した事であるから、これを試みるは当然である。予は右の如き意見を松井大将にも語り、大将はその翌日―十日―梨本宮元帥殿下に拝謁し、十一日早朝東京に向って発った。予はその時も一通り右の事を語り、興亜総本部と言論報国会と相合して、一大獅子吼を日比谷に試みん事を約してい、松井大将も何れ電報で返事をするという事であった。しかるに翌十二日電報が来たから、予は松井大将との相談の結果であろうと思うていたが、後で聞けば、それは前以て―八月六日―予が鹿子木博士に与えた書簡の結果であった事を知った。松井大将は十六日に東京から帰り、十七日の午前予を訪問して来たが、既に東京に着した十一日は、万事非であったという事である。それはその筈だ。事実は八月九日に既に降伏の内議は、上層部では決していたからである。

予は何れにもせよ、二十日には講演に出掛くる積りでいた。しかし新聞の調子といい、一般の風説といい、かつ予の友人の、東京の近情を齎らし来たった者の説といい、何れも不愉快の事のみであったから、衷心頗る不安の念に駆られていた。ところが十四日の夜は、放送が全く不可能となっていた。どうもラジオの故障でなく、故らに爾かしたものらしく考えられて、何事かあるに相違ないと考えた。その翌早朝、付近の特高巡査は、「昨夜は重大事があるからとの事で、何れも非常準備をしていた」云々と語った。かくてやがて放送によって、正午聖上の御放送ある旨を知らせて来た。予もこれを聞いて、涙の出るほど有難く感じた。今日では既に遅い。けれども尚お無きに優るものがある。よって家人に命じて、お祝いの強飯を炊くべく命じた。実は友人が、若干の小豆と餅米とを提供し、それを大事に蔵まい置き、最も慶こぶべき機会に、これを使用すべき積りであったからである。ところが予は再思するに、余りに事が意外である。あるいは恐れながら御放送は、我等の期待する反対の意味ではあるまいかと杞憂した。よって命令を取消し、兎も角も一応御放送を謹聴し奉りたる後に、再び予の命令を待つべく申付けた。予自らは手洗い漱ぎ、羽織袴を着け、室内には香を吐き、家族一同を招集し、何れも衣服を改め、態度を正し、初めは静座し、君ヶ代と同時に起立し、謹聴し参らせた。而して御放送が終りを告ぐると同時に、予は即時に家族に向って申し聞けた。承詔必謹は臣道の常である。爾後和戦の問題については、決して口外する勿れ。予が新聞記者たる幕は、今日限り閉ざす事となった。予もまた今後は後世子孫を相手に、残年を送るであろうと。而して直ちに毎日新聞に向って社賓辞退の電報を発した。その電文は左の如し

本日限リ貴社社賓タルコトヲ辞退ス宜布御諒察ヲ乞フ同時二多年ノ御厚情ヲ感戴ス徳富猪一郎高石会長奥村社長宛

しかるに右は発送したところ、途中より通電不可能の旨にて返却し来たった。よって翌日塩崎〔彦市。蘇峰の秘書〕氏を東京に特派し左の書類を本社幹部に手交せしめた。

(辞表)
昭和二十年八月十五日本日限貴社社賓辞退仕度候間宣布御承引被下度候以上
徳富猪一郎[徳]
高石会長 各位
奥村社長
幹部人々御中
(添状)尚々貴社ノ幸運ヲ祈リ申上候

(以下、省略)

同時に言論報国会、文学報国会にも、会長たる辞表を提出した。而して言論報国会の幹部には、辞表と同時に、左の一書を与えた。

恭呈
聖上御放送謹ンテ敬聴此上ハ老生会長辞任当然ノ儀何分ニモ御亮恕御承引奉願候昭和二十年八月十五日艸々不一
鹿子木先生
齋藤先生
外幹部諸君

老蘇
頓首

かくて予が操紙者たるの六十余年間の幕は、これにて下ろした事となった。

(昭和二十年八月十八日午後、双宜荘にて)
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