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二九 日本の心的去勢

頑蘇夢物語
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近頃日本人が米国人の手先となって、日本を米国化せんとする事に、これ日も足らざる有様は、只々不思議に考えらるる。今日米国人は、如何なる手段を執れば、日本が再び起ちあがって、米国に復讐が出来ぬようになるかと、それのみを考えている。その手段として、日本から立ちあがる事の出来ぬように、あらゆる物的条件を剥奪する事を努めている。武器は愚ろか、刀さえも取上げるという始末で。昔豊太閤が刀狩りをして、大仏を造ったが、アメリカ人は、刀狩りをして、何を造る積りか。兎に角日本国を丸裸にし、日本人を丸裸にすることを考えている。近頃ラジオなどの伝うる所によれば、日本が他国に手を出すようになったのは、畢竟日本に資本が有り余ったからである。生産するところの物は多くして、消費するところの物は鮮なく、その余裕が出来た為めに、それを以て軍国主義の方便に供することとした。故にこれからは、その心配なきようにせねばならぬ。それには資本家を解散し、日本人の生活を引上げ、つまり日本人をして、宵越の銭を遣わず、その日暮しになさんとする積りと察せらるる。即ち貯蓄とか献金とかという事をなくして、日本国民を挙げて、比律賓同様のものたらしめんとするが、米国流の考え方である。それには最も重宝なる事は、社会主義である。民主主義というが、民主だけでは、不徹底である。社会主義まで行かねば、その目的が達せられないという事で、盛んに社会主義の勃興を煽っているようだ。恐らくは今後出で来る社会主義は、マッカーサーの御用政党と見て差支あるまい。聞けば社会主義の学校も出来るということである。やがては文部省なども、その波に乗って、泳ぐことであろう。明治二十三年十月、教育勅語の発布以来、それを国民に植え付けたる文部省は、今後如何なる方便を以て、これを払拭し去らんとするか。一旦緩急あれば、義勇公に奉ずなどという教育勅語の文句は、マッカーサーにとっては、一大禁物である。追々は所謂る新日本の、新教育宝訓なるものが出来るであろうが、その眼目はこれを予想するに難くない。
この頃聞けば、米国大統領トルーマンは、日本国民を戦争に引張り込だる思想団体を、根こそぎに検挙し、これを撲滅するようにせよと、命令したりというが、彼等は物的資源を剥奪し去るばかりでなく、心的資源を剥奪し去る事を、これから目論むであろう。如何に武器は取上げ、その日暮しに国民を陥れても、若しそれが空拳赤手を以ても、尚お天皇に奉仕し、国家を熱愛する者があっては、安心出来ぬから、根本的に所謂る日本精神を払拭し去る積りであろうが、日本精神の根本は、日本歴史に在り、日本歴史の目的は、日本の皇室に在るから、究極の目的は、日本から皇室を取除くか、取除かざるまでも、日本国民の心から、全然皇室なるものを忘却せしむるか、何れにか持って行くであろう。無条件降伏を謳歌したる人々は、これで国体だけは、取り留めたなどと、自画自賛していたが、豆計らんや米国では、国体の根本に向って、直ちに一撃を加えんとしていることは、火を見るより瞭かである。その場合に於て、我等の考えはその通りではなかったと、申訳しても、既に晩しである。予は確信を以て断言する。米国は日本を物的去勢をなすばかりでなく、心的去勢をなさんとするものである。当るか当らぬか、遠きを待たず、必ずその実見の日が来るであろう。

(昭和二十年九月二十七日午前、双宜荘にて)

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