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四一 ミルトンと予

頑蘇夢物語
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 人間の運命なるものは、容易に前知し難きものである。寸前暗黒とは、この事であろう。 しばら 暫く予自身の狭き短かき経験について語るも、全くその通りである。予は青年時代マコウレ ーの「エッセイズ」の愛読者であり、殊に彼れの「ミルトン論」を愛読し、爾来ミルトン・ ファンの一人となった。その事は、曾て大正六年『杜甫と彌耳敦』の一書に 詳 かであれば、今ここに語る必要はない。曾て明治十七年、二十二歳の時に『明治二十三年後の政治家 の資格を論ず』という小冊子を著わしたる際、二首の七絶を作ったが、その一首には左の如 くある。
 鼓舌不能連六国 舌を 鼓 てども六国を連ぬること能わず
 胸中那肯画三分 胸 中那ぞ情て 三分を画さんや
 畢生辛苦期何事 畢生 辛苦して 何事をか期す
 自擬東洋彌耳敦 自ら擬す 東洋の彌耳敦に
 ここに「自擬東洋彌耳敦」とあるが、蘇峰老人も、少壮時代には、詩人を気取っていたも のであろうと思う人もあろうが、それは大早計だ。自分は唯だ、ミルトンが、文人として、 その所信の篤くして、毀誉褒貶、吉凶禍福によって、何等影響せられず、断々乎として、力 行惑わざる、その篤信と気魄とに、傾倒したる為めに、かく言うたものである。ミルトン は、若い時には「貴女ミルトン」と呼ばれ、立派な風采の男であったようだが、家庭的には 恵まれず、時恰かもピュリタン革命の時代で、彼は全幅の力を傾むけて、その急先鋒となっ た。彼は病の為めに、盲目となったが、それでもクロムウェルのラテン秘書として、良く勤めた。クロムウェル死後、天下一変、回復時代来らんとするや、彼は「共和政治を建立する ム 最善の方法」などという小冊子を編し、盛んに時勢と逆行したが、事志と違い、彼れの著書は焚かれ、彼は全く異端視せらるるに至った。しかも彼れの大作「失楽園」(“Paradise
Lost”)、「回復楽園」(“Paradise Regained”)などの作は、皆な窮 愁、悩鬱、無聊の余に 成ったものと察せらるる。最後の作は、即ち「サムソン・アゴニステス」(“Samsom Agonistes”サムソンの苦悶)と題する、短かき劇詩であり、旧約全書にあるサムソンの事 を、叙事詩に作ったものである。これはいう迄もなく、夫子自ら譬えたものであろう。予は 「失楽園」の詩は、長篇ではあるが、随分愛読した。同時に「サムソンの苦悶」の叙事詩 は、尚更ら愛読した。予自身の一生は、別にミルトンと、何も対照すべきようなものはな い。ミルトンはケンブリッジの秀才であったが、予は大学には足跡もない。壮年以来の詩作 は、天下を駿ろかしたが、予には左程の作も無い。ただミルトンが、時局に関心を持ち、常 にその論争の渦中に投じて、奮戦勇闘したる一点に於ては、不幸にして予には、ミルトン程 の鋭利なる筆の持合せはないが、その熱心、その努力に至っては、敢て遜る所ないと、信じ ている。それよりも、今日に於て意外に思うのは、ミルトンも、晩年に於て、時局が一変 し、予も亦た同様である事だ。ミルトンも最後まで闘い、予も亦た「頑張読本」などとい う、小冊子までも著わして、最後迄戦かったが、何れも力及ばずして、狂瀾怒濤の中に、覆 没するに至った。ただ予もミルトンも、船幽霊とならず、自我なる小城砦に立て籠もって、 力行惑わざる点だけが、聊か相い類したるものあるを見る。今日手許にミルトン集が無い。 それで「サムソンの苦悶」の叙事詩は、これを読むに由なきも、少壮時代に愛読したるもの が、今尚お胸中に往来している。予も明治十七年には、固より今日あると予期しなかった。しかるに今日から 顧 れば、この詩は宛かも予が今日を、六十二年前に於て、予言したるも のの如くである。自分ながら私かに意外といわざるを得ないのである。今日予を慰むるもの は、ミルトンよりも、むしろミルトンの作「サムソンの苦悶」である。予もせめて、サムソ ン程の豪宕不屈の気魄は、持合せていたいものと思う。偶ま感ずる所がありて、この事をこ こに記して置く。
 幣原内閣も、今日|十月九日|愈々出来あがったようである。この内閣はマッカーサーの 所謂る傀儡内閣である。この傀儡内閣は、誰れが作ったかといえば、米国側で作ったもので ある。元来今更ら幣原などという漢を引っ張り出して、内閣を組織するという事は、余程の 茶人でも、思いつかぬ所である。それを思いついたのが、即ちマッカーサー側である。一時 は吉田茂ということであったが、吉田はアメリカ側の意響を察し、―彼は予め打診していた ようだ―飽く迄自ら辞して、幣原を推薦し、その為めに、近衛も、平沼も、木戸も、それに 賛成するに至ったという事であるから、それだけの事を見ても、この内閣が、マッカーサー 傀儡内閣である事が判かる。いわばマッカーサー内閣の小使内閣である。給仕内閣である。 僕々爾として、奴顔婢膝、マッカーサー側の思召を奉戴するだけの役目である。元来東久邇 宮内閣は、あらゆる欠点はあったけれども、少なくとも傀儡内閣ではなかった。依然伝統的 日本の内閣であった。しかるに幣原内閣に至っては、全くその性格が一変して来た。明治維 * 新以来、随分やくざの内閣もあったが、未だ外国人の傀儡内閣であったのは、一も無い。これ有るは幣原内閣より始まるといわねばならぬ。幣原としては、十年以上も世間から遠ざか って、マッカーサーのお眼鏡に叶い、首相の位地まで引っ張り出されて来たのであるから、 愛を先途と働らくであろうが、今度出来あがった内閣の顔触れでは、全くサッパリしない。 内務大臣となった堀切善次郎の如きも、要するに官僚である。内務省側では、異端視されて いたということであるが、内務省は部内だけの話で、一定の蛙が、他の蛙の群中から除け物 にされたる位に過ぎない。蛙はやはり蛙である。彼が今後何事を為し得るか。ただアメリカ 人の注文に忙殺せられて、しどろもどろで、追ては引き退がるの外はあるまい。今日最も重 大なる問題は、食糧の問題と財政の問題である。農林大臣となった松村〔謙三】が、前農林 大臣千石興太郎と比べて如何。千石にも必ずしも満足はしないが、公平の観察で、むしろ千 石の方が、押しも利けば経験もあり、一日の長ありと察せらるる。財政の問題は、何よりも インフレを防ぐ事であるが、これは津島〔寿一]と渋澤〔敬三)とは、別に軒軽する所もあ るまい。というは、要するに、それ等の遣り繰りは、大蔵省の属僚共がやるからである。
 更に一つの問題は、失業者問題である。失業者の数は、今日では五百万人といっている が、我等の見る所では、恐らくはそれに二を乗ずる数に上りはしないかと思う。兎に角人は 余る。仕事は不足。食糧は尚お不足という事であって、このままで措けば、大なる内乱を見 ざる迄も、社会の秩序は、非常に素乱するであろうという事は、断じて疑いを容れない。今 日日本の治安を維持する力は、アメリカの軍隊以外には、全く絶無である。日本の軍隊は、 復員してしまう。日本の警察は、殆どその爪を取られ、その歯を取られ、全く去勢されて来た。しかも日本政府自身の威信ともいうべきものは、皆無である。かかる場合に於て、斬取 強盗、追剝などの流行は、誰が眼にもこれを予見することが出来る。それに加えて、外国軍 隊なるものも、油断をすれば、如何様の事でも、仕兼ねぬ者ではない。現に逗子の桜山で は、黒人兵の強盗が押入って騒がせた事件がある。
 それにまた付け加えて、これ迄制裁を加えていた政治犯人、所謂る社会党、共産党、中に は悪質のギャング連中さえも、彼等は思想犯の美名の下に、アメリカ人の手によって、釈放 せられることとなった。彼等が如何ような事件を、今後に出来するか、決して安心も出来 ず、油断もならぬことと思う。やがて久しからずして、一度廃止せられたる特高課が、恋し くなる時節の到来せずやと思う。支那では、従来国家の統制力が、薄弱であった為めに、自 衛の力は強かった。即ち匪賊が横行しても、大抵のものならば、隣保協力して、これを防禦 し、これを撃退し、もしくはこれに賄賂して、大なる災いを、小なる災いを以て防禦する工 夫も出来ている。しかるに我国では、これに反して、国家の統制力が、行き届いていたか ら、個人の防禦などというものは、殆ど皆無である。この弱点は、大正十二年九月、関東大 震火災の時に、極めて明白に暴露せられた。
 恐らくは今日以後に於て、更にそれよりも大なる欠陥が、暴露せらるる日が来るであろ う。全く無心の至りに堪えない。
(昭和二十年十月九日午後、双宜荘にて)
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