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四三 外人の見たる日本の国民性

頑蘇夢物語
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この頃マッカーサー側が、日本の事を色々調査し、洗いざらいに、それを暴露するようだ 、これでは最早や何一つ日本には秘密なるものが存在せぬこととなった。昨日は海軍省の 中に蔵まい置きたる金塊とか、宝玉とかいうものを、兵隊で取り囲み、中に入って、それを 押収したということである。また帝室財産なども、調査の上出せという事であるから、これ も何れ世間に披露せらるる日が、あるかも知れぬ。しかしながら、これらの事によって、我 等が予て思った事が、意外にも証明せられるものがある。例えばマッカーサー司令部は、戦 争末期の我国に於て、日本陸軍の兵器生産の概要について、左の如く報告している。

小火器用彈藥不足
戦争末期の日本の兵器生産
米陸軍総司令部渉外局発表=マッカーサー司令部は七日戦争末期における日本陸軍の兵器 生産状況の概要につき左の如く発表した。
日本の軍隊は降伏以前相当の期間に亘って小火器並に小火器用弾薬の危機的な不足に直面 していた。小火器生産減退の原因としては鉱山及び炭坑における熟練鉱夫の不足、輸送機 関の破損増大及び本年三月以来の爆撃に依る兵器工廠の損害等が挙げられるが以上とは関 係なく、更に二つの要素も存在した。即ち、
一、一九四二年日本は歩兵部隊の二つの基本的武器たる小銃及び軽機関銃の口径を従来の O・二五時から○・三○時に変更せんとしたが日本の生産能力はこの変更を円滑に実施す ることが出来なかった。
二、原料不足に依り日本軍は新たな○・三〇吋口径用の弾丸のために鋼鉄製の薬莢を使用 すべく余儀なくされた。然るにかかる小型薬莢を鋼鉄で生産する技術的困難は最後迄遂に 克服することが出来なかった。此結果小銃及び機関銃弾薬の生産は非常に減少した。然る に一方では日本軍は重擲弾筒用弾薬は長期に亘り使用しきれない程の大量の手持をもち、 更に沿岸防備砲に対する弾薬も過剰であった。 併し高射砲弾薬は不足勝ちだった。 (後略)
(「日本産業経済新聞」昭和二十年十月八日)

これにて見れば、一方では余る程余って、他方では足らぬがちの兵器があった事が判か る。しかるに余れるものを足らぬ方に振り向けて、兵器の不足を補うなどという事は、遂に 手が廻らずに済んだものと思う。更に最も注意すべき一点は、右公表の最後の一節である。

「注意すべきことは過去数ヵ年間に亘り、日本軍は屑鉄用として大建築物から多くの暖房 用放熱器を取り外したが、これらは戦争が終った時集積所に赤錆の状態で放置されてい た。これは陸海軍及び其他政府機関の間に、如何に連絡が欠如していたかを物語るもので ある」

といっているが、正さしくその通りである。屑鉄一件については、予も自ら経験がある。予 は政府が金属を徴用するという事を聞いて、率先して山王草堂の庭前に安置してあった予の 文章報国四十年記念の為めに、友人等の寄贈したる、藤井浩祐氏の彫刻にかかる半身の銅像 を、隣組長の宅まで差出した。これはそこから赤襷をかけて、国民学校に持て行ったという 事であるが、その後の消息は遂に聞かない。次に山王草堂の門の扉が鉄であるとて、その取 外しをすべきであろうと感じ、実は頗る迷惑はしたが、取外して差出すこととした。しかる にそのまま外されて放ったらかし、何日まで経っても、それを受取に来る者がなく、催促を すれば、手が廻らぬとか、トラックが無いとかいう事で、予はしみじみ嫌やになった。余り久しくなって、予が忘れた頃、何処へか持ち去られたものと察せらるる。その後青山会館の金具も、取外すように命ぜられたが、漸く修繕をした後であって、成べくなら御免を蒙りた いと思うていたが、遂に取外すこととなった。而してその跡を兎や角誤魔化して置く為め に、二万円内外の経費が、かかったという事である。しかしその行方が如何になったか、相 変らず予の扉同様ではなかったかと思う。金属といえば、予は昭和十七年、戦争の真最中、 否なむしろ上期ともいうべき頃、本郷の帝大病院に入院したが、病少しく間ある頃、大学の 構内を散歩すれば、大小数うるにあらぬ程の銅像などがあり、その中には、濵尾新氏の銅 像などは、銅像そのものもであるが、それに付属したるものは、むしろそれに数倍する程 の、金属を使用してあったように憶えている。しかもそれらの物には、一切何人も手を触れ ずにあった。必要なる門の扉さえ外ずす程であれば、これらの物は、早く処分をしても、よ かりそうなものと考えたが、誰れ一人気が付く者がなく、付いてもそれを行う者はなかった ものと察せらるる。

殊に自分が意外に考えた事は、銀を出せという事であって、その時は自分等も予て当局の 仕打が、余りに無責任不深切であることを知っていて、熱心でもなかったが、十人並の事は した。尚お予が文章報国の記念か、若くは他の記念か、電報通信社より贈られたる、大なる 銀製のペンがあった。それも寄付すべく申出たが、受取に来る人がなく、それはそのまま多 分熱海の晩晴草堂に、残っているであろうと思う。政府では、銀を出せ銀を出せとて、新聞にも広告し、隣組からも申して来るという程であったが、いざとなれば、それを徹底せしむ る事には、頗る熱心を欠き、しかも半面には、その最中に、銀盃賞与などという事が、行わ れていた事は、洵に以て驚き入たる次第といわねばならぬ。それ程銀が大切であれば、木盃 で遣っても、あるいは陶器の盃でも、差支はあるまいと思うに、旧慣通り銀盃を賞与するな ぞという事は、莫迦気切た話である。一事が万事その通りであるから、戦争が巧まく運ばな かったことも、必然であったといわねばならぬ。語を換えて言えば、かかる不始末をしなが ら、よくあれ迄やったものと、その点だけは却て感心せらるる訳である。

この頃故高楠順次郎氏が『アジア民族の中心思想』と題する書物に、色々日本国民の性格 を挙げているが、その中に、

これは西洋人がよくやることです。日本の国民性はこういうものであるというふうにや る。大体聞いて見ると、第一に、日本人は非常にシンプルである。単純性ということは 確かに一つの国民性である。第二には、日本人は非常にきれい好きである。清浄性は確 かに国民性の一つである。第三には、日本人は非常に忠実を重んじる。純真性は日本人 の特質である。この三つはだれでも言っている。かく書いてある。即ち今ここに掲げたる 単純性と清浄性と純真性との三者は、日本人にも西洋人にも、同一に認定せられたる日本 の国民性である。と。高楠氏がこの書の著述をしたのは、昭和九年の末から、十一年の半ばにかけての事であ って、支那事変前の事であるが、今日では日本人の評判は、決してこの通りではない。少く ともアメリカ人等が認むる所では、全くこの三者の反対である。日本人は世界に於ける一大 詐欺者である。即ち真珠湾の不意打は、それが証拠である。今日では、真珠湾の一件が、世 界的大問題となって、真珠湾の不意打は、宣戦詔 勅の以後であったか、以前であったか、 天皇陛下が詔勅を発せられたのは、何月何日何時頃であったかなぞと、頗る詮議立てをして いる。而して戦争犯罪人なるものも、これに連累した者が、恐らく多数であろうと信ぜらる る。次にまた日本人ほど不潔なる者はなく、一度び日本人の足を入れたる土地は、直ちに不 潔の巣窟としている。而して彼等が日本に進駐するや否や、太平洋の孤島で、害虫退治、そ の他の伝染病退治をやった同様の始末やら、空中から消毒薬を雨降らしている。また日本人 が比律賓に於ける残虐行為は、米人によって、典型的日本軍の暴虐事項として、披露せら れ、多分その為めに、比律賓に関係のある山下奉文】とか、本間〔雅晴」とか、黒田〔重 徳〕とかが、それぞれ引っ張られたのであろうと思わるる。必ずしもその事のみとは限らぬ が、それが主なる一である事は、間違いあるまい。以上述べたる通りであれば、即ち日本人 は、単純性の代りに、複雑性であり、清浄性の代りに、不潔性であり、純真性の代りに巧詐 性であると、いうの外はあるまい。即ち日本軍が、一百万内外の生命を賭し、二千億以上の 金銭を使用し、足掛け五年掛かりで、嵐ち得たるものが、この悪評でありとすれば、この悪評の代価も、決して低廉という訳には参るまい。予は今ここに高楠氏の掲げたる通りである か、最近アメリカ人の評判通りであるか、何れとも決定し兼ぬる。思うに今日でも、あるも のは前者の如く、あるものは後者の如く、何れも部分的には間違いなかろうと思うている。 ただ問題は、何れが多数であるかという事である。しかしこれは観察の角度如何によって、 何れともいう事が出来るし、何れともいう事が出来ぬし、つまりは未決の問題として、将来 に取り置く外はあるまい。特攻隊の青年等の事を考うれば、正さしく高楠氏の説明した通り であるが、しかし陸海軍の巨頭とか、中堅という連中について見れば、アメリカ人の悪評 も、悉 く皆それが濡衣であるということは出来ない。

(昭和二十年十月十日午後、双宜荘にて)

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