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一四 敗戦の原因(五)

頑蘇夢物語
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本日(九月三日)棚の上の古い箱を引出して見たところ、十九年の七月頃、当所―双宜荘ーに滞 在したる頃の若干の書類がはいっていた。いま試みにその中の一、二をここに掲げて置く。
自分と東條前首相との関係については、別に語る所があるが、昨年七月一日、家族は熱海の晩晴 草堂より沼津を廻って、御殿場で予を待ち受けしめ、予は塩崎秘書を伴い東京に赴き、東條首相に 面会し、それより御殿場にて家族と落合い、当所へ来る事とした。予が殊更に足を枉げて、東京に赴いたのは、当時の戦局が甚だ面白くなく、しかも人心が如何にもそれに対応する程の元気が無 く、是ではとてもいかぬと心配して、東條首相の一大果断を促がす為めであった。予て打合せて置 いたから、東條首相も首相官邸の日本間に待ち合せ、そこで面会した。その時に例のサイパン問題 も持ち出したが、またその他宮中方面の覚醒についても進言した。殊にその際、この状勢を一新す るには、大号令の煥発より外はないと考え、甚だ僭越ではあるが、自から起草して、その案文を首 相に手交した。ところがその草稿を偶然にもいま見出した。よってこれをここに掲げて置く。

  案文
朕惟フニ米英二国ノ帝国ニ対スル暴戻非道ノ圧迫ハ遂ニ朕ヲシテ已ムヲ得ス二国ニ向テ戦ヲ宣ス ルニ至ラシメタリ。爾来二季有半朕カ陸海将兵ノ精忠勇烈ト汝等有衆ノ勤倹自粛殉公捨私ノ忠貞 ニ頼リ業二既二曠古無比ノ効果ヲ挙ケタリ。然モ敵国ノ頑冥執拗ナル凶 謀逆企底止スル所ヲ知 ラス更二物量ノ富庶ヲ恃トシテ敢テ我ニ向テ反撃ノ抗戦ヲ 逞 フシ其勢猫撥戦機方サニ熾烈ヲ極 ム朕ハ我カ金融無欠ノ帝国カ煌々赫々タル祖宗ノ遺烈ヲ更張シ遠鉄ヲ快宏ニシ必ラス宣戦ノ目的 ヲ完遂スルノ期実ニ今日ニ在ルコトヲ確認ス。朕カ陸海軍ノ将兵朕カ百僚有司朕カ有衆須ラク此 ノ非常ノ時局ヲ看取シ渾然一体トナリ一致協戮顕躍奨順以テ最善ノ報効ヲ励マンコトヲ希フ。 若夫レ軍国ノ機務二就テハ朕親ラ込ヲ裁シ当局ノ臣僚フ督シテ対応ノ道ヲ盤サシム可シ朕ハ汝等億兆ノ忠勇二深ク倚信シ交ニ其ノ適従ノ道ヲ聴諭ス

しかるに是は全く闇から闇に葬られて、遂にそのままとなって来た。

尚おまたここに六月二十五日附の『軍官民各位に告ぐ』と題する、予が自筆の草稿があった。こ れは毎日新聞で活字となし、それが検閲の末、遂に全部闇から闇に葬むられたものである。手許に 原稿と校正刷とがある。今ここにその校正刷を掲げて置く。

検閲
軍官民各位に告ぐ
蘇峰 德當猪一郎

今や我が皇国は、安危存亡の決 する十字街頭に立って居る。掛値 なく、溢辞なく、正真正銘のとこ ろ、今は一大非常時である。敵米 国も全力を尽し、必死の勢もて来 たり攻めつつある。 今日の場合は 決して文永、弘安の蒙古来襲の比 ではない。全く皇国は生死厳頭に 立って居る。 如上の要領は、即今 大本営発表の事実が、これを雄弁 に語って居る。

我が軍官民の三者は、その職域 において、各個の立場にあるも、 均しく皇国の臣民にして、至尊の 赤子である。今日において我等軍 官民が一致教協、蹴起して、この 危急の情勢に処し 大元帥陛下の叡慮を遵行し、哀 襟を安んじ奉り、皇国を富岳の安 きに措かずんば、また何の日を期 すべきぞ。我等が総蹴起を絶叫す るは、決して月並的極り文句を列 ぶるではない。真に中心よりかく 信ずるからだ。

本文の記者は申す迄もなく八十 二齢の老書生である。進んで第一 線に立つべき体力もなければ、内 に在りて帷幕の謀に参ずる智略も ない。ただ新聞記者として奉公の 他に余念なき老骨である。されば かかる場合に直言して、その所信 を天下に訴えざれば、死して余罪 あり。故に仮令この身は如何なる 言禍をかうも、敢て一言する。た ださいわいに言者罪なく聴者戒む るに足るあれば無上の仕合である。
今日は決して責任を互いに他に ! 推談すべき場合ではない。軍官民 皆各々自省、自反、自責、自戒、 以てこの危急に最善の努力をいた すべきだ。今は国家が一躍して、
ちよちだっ 旧態を超脫すべき最好の潮合だ。 今日軍人に向って一言するは、あ たかも虎類をなずるが如きもの。 しかも我等は言論人として、敢て 陸海軍の諸子に向って所見を開陳 するは不可避の義務と信ずる。

ねがわくは小我を去れ。ねがわ くは大我に進め。ねがわくは陸軍 に囚われず、海軍に囚われず、た だ 大元帥陛下の醜の御楯として の本然の姿に立返れよ。

我等は平生彼等の忠勇に対して 満腔の讃嘆をおしまざるもの。し かも陸海両軍の協調に至りては、 決して最善の域に達したというこ とは出来ない。何すれぞ今一膜を 剝ぎ、今一皮を削り、真に雄渾な る大戦略の下に、相鉄協するの道 を開かざるや。我等は決してかか る言を好んでいうものではない。

ただに言論人として已むを得ざれ ばなりだ。我等は決して軍人に対 して彼是れ文句をいうものではな い。軍人を愛し、かつ皇国を愛す るが故にかくいうのである。
我等は官僚に向って、また軍人 同様の言を呈するを憚らない。東 條首相をはじめとして大僚、高官 一切の官公吏の諸君、何れも皆目 ら遺憾無きにちかき働きをなしつ つあるであろう。しかし国民一般 の見る所では、彼等が未だ全く時 局に目が醒めていないのではない かと虞るるもの少なくない。彼等 は依然縄張り争いをしている。 依 然割拠主義を固執している。依然 自己の面目、利益、もしくは位置 を擁護することに専らにして、自 日本位の標を脱却することは出 来ていない。もとより多くの除外 例もある。されど除外せられざる 例は更により多くある。

特に我が首相その人の如きは、 王臣寒々の節をいたすの点におい s ては衆目の見る所、十指の指さす所、もとより間然なきにちかし。 されど真心休々焉として、容るる 所あるが如き雅量、宏懐、軍国の 賢宰相として衆智を集め、群材を聚め、天下の人心をして勇躍奮進 せしむるの道においては、尚お一 段の功夫を要するものなきか。我 等は敢て備らんことを賢者に責む ・るを以て咎を被る所なかるべきか。

軍人諸子からも、官僚諸子から も、我が国民は耳にたこの出来る ほど説法を聴いている。今更それ に添え加うる文句もない。けれど も正直のところ我が国民一般も、 そのある者を除けば、なお凄々慣 慣たるもの決して鮮くない。米国 の一新聞は、米国民が時局に目醒 めざるを見て、せめて日本の飛行 機が「シカゴ」の街上に顕れ、爆 弾を投下してくれたらばと述懐し ているが、これは決して他人の事 ではない。我等自身も更に銘々の 職域において、また自他の協裁に おいて、誓って至尊の聖意に対揚 し奉らんことを努めねばならぬ。

要するに我等は決して難きを他 に責むるではない。何よりも自ら 責むることが先務である。しかし 今日において苦情は概ね弱者に向かって雨下し、強者の方面は、何 れも回避している。 我等も出来う る限りは回避した。されど今日な お回避せんか、我等言論人は、全 くその職責を放擲するの責めに任 ぜねばならぬ。これを以て我等は 敢えて自ら進んでこの苦言をまず 軍、官、民の三者に呈し、特に今 日の最強者たる軍人を首としたる 所以である。

ゆ言は毒也、苦言は薬也。もし 我が軍官の諸子が、我等の苦言を 薬石としてこれを採納せば、皇国 の大幸これに過ぎず。乃ち敵米英 を撃滅するにおいて何かあらん。 我等は決して敵を恐れず、恐るる はただ味方の足並の揃わぬ一事の みだ。軍官民を挙げて、一億の同 胞よ。ねがわくは焦眉の危急に目 醒めよ。(昭和十九年六月二十六日)

軍官学止

いまこれを一読して見れば、如何にも戦々競 々として、薄氷を履むが如き気持ちで書いている ことが判かる。それにも拘らず、この全文が発行を見るに至らなかった事を見れば、当時の東條内 閣の神経が、如何に過敏であり、如何に中正を失うていたかが判かる。世間では、予を必ずしも東 條内閣の御用記者とはいわなかったが、予と東條首相との間には、親密なる関係があることを知っ ていた。如何なる角度から見ても、東條内閣では、予を倒閣運動者とか、反対者とか見る可き理由 は無い。しかるにこの位生温るき文章を、掲ぐることを許さなかった事を見れば、東條内閣の末路 の近かったことが判る。それやこれやで、遂に七月一日予自から東條首相に会見して、単刀直入、 予の意見を開陳した訳である。

話変ってサイパン島が七月の七日に陥落し、東條内閣が七月の十八日に陥落した。実はその以前 に、余りに様子が変であるから、予は塩崎秘書を東京に赴かしめ、東條首相及び赤松秘書官につい て、その事情を探らしめたが、最後のカンフル注射も、効果を奏せず。宮廷と重臣のある者等との 為めに、東條内閣は毒殺せられた。しかしこれは内閣そのものからいっても、自業自得であろう。 さてその次に小磯内閣が出で来った。この内閣が出で来った事情については、今ここに語ることを 省くが、予は小磯氏とも相当の関係を持っていた。よって小磯内閣が未だ出来上らない前、十九年 七月二十日、特に毎日社員高木徳氏を専例として、左の意見書を送った。高木氏は小磯総督の依頼によって、予は曽て京城日報の副社長として送った縁故があるからである。その原稿もいまここに 在る。今これを掲ぐることとする。

小磯大将ニ与フルノ書

(昭和十九年七月二十日)

謹按今日ノ要ハ宮中府中ヲ戦時体制トナシ神武天皇明治天皇ノ 聖跡二卒由シ天皇親征天皇親 政ノ実ヲ挙クルヨリ急ナルハナシ。希クハ日本書紀神武紀ヲ乙夜ノ御覧ニ奉供セラレンコトヲ。
一 飽迄主戦一貫タルヘキ事
一 日独ノ提携ヲ緊密ニスヘキ事
一 海軍ニ活力ヲ輸血スル為メ末次大将ヲ起用スル事
一 宣伝省ヲ新設シ主戦ノ政策ニ一段ノ強味ヲ加フへキ事
今日ノ三大機関情報局、放送協会、新聞紙皆半死半生ノ情態二在リ。
一 新ニ軍需品製造ニ関スル監査督励機関ヲ設クルコト
今日依然商売損得主義ヲ以テ軍需品ヲ製造シツ、アリ、コレデハ到底刻下ノ急ニ応セラル可キ理由ナシ
一 官吏ハ依然旧態ヲ株守ス而シテ単二人民ノミヲ厳責ス是レ全国ノ一致ヲ欠キ国内ノ不統一ヲ来タス所以ナリ是レ一大刷新ヲ要スル所以ナリ
一 軍官横暴国民ノ怨嗟ヲ培養シ小籌巧策イヨイヨ之ヲ助長シ遂ニ厭戦思想ヲ蔓延普及セシムルニ到ル。其ノ憂ハ共産党ノ地下潜行運動ヨリモ甚タシ。徒二苛法酷律ヲ以テ国民ヲ御スルハ 最モ憂慮スへキ事ナリ天時ハ地利ニ若カス地利ハ人和ニ若カス今日欠乏スルハ食料ヨリモ武 器ヨリモ人和二在リ。人和ヲ失フテ政府ノ孤立ニアリ。
以上
昭和十九年七月念

自分は決して古証文を担ぎ出して、彼是れいう訳ではない。しかし是等の断簡零墨を見ても、自 分が大東亜戦争に対する態度は、始終一貫していることが分明である。何れにしても、至尊親か ら、近くは明治天皇、遠くは神武天皇の如く、統帥の実を表現し給うにあらざるよりは、到底必勝 の功を奏することは難いと考えたのである。以上も亦た予が前に言明したる如く、敗戦の最大原因 は何処に在りやということを証明する証拠物件とするに足るものがあろう。

(昭和二十年九月三日午後、双宜荘にて)
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