話は少し前に遡るが、満洲事変は、竹藪から出た 筍 ではなくして、縁の下から畳を持上げて、 座敷の真ん中に飛び出したる筍のようなものだ。物事が筋道が通って、当り前に運べば、陸軍の数 名の佐官級の将校が、これ程の大事を仕出かす筈はない。しかるに無理に無理を加え、圧迫に圧迫を重ねた結果、勢の激する所、ここに到ったのである。それは大正から昭和の初期に至る迄の日本 の政治が、余りにも乱脈であった為めである。乱脈ばかりでなく、同時に余りにも無能であった為 めである。大正の初期から昭和の初期まで二十余年間、政党内閣と官僚内閣の、盟 廻しといわん よりも、チャンポン内閣であって、殊にその間政党横暴の時代であり、これを矯むる為めに、また 官僚横暴の時代を来し、国家の経綸などは、全く棚の上にあげて、唯だ党利党益をこれ事とした。 政党ばかりが党であるばかりでなく、官僚もまた一種の党である。その為めに、あるいはそれに対 する一大抗議として、満洲事件は出で来たったということも出来よう。今更その職域に在らざる者 が、上司を凌いで、勝手の振舞をしたとて、それを咎め立てする訳にも行くまい。しかしその以来 軍が政治を引摺り、また軍のある部分の人達が、軍を引摺り、政権は在る可き所に在らずして、在 る可からざる所に在ったような傾向であって、誰れ一人それを怪しむ者は無かった。ところが、そ の惰力が転々して、大東亜戦争となり、気で聖詔 淡発して、明治の御代に還元すべき筈であった が、不幸にして、それが行われず、遂にかかる驚天動地の大事件、振古未曽有の大難題を、殆ど充 分の仕度もなく、準備もなく、用意もなく、引き負うてしまったのである。軽率といえば軽率であ るが、実をいえば、この戦争は日本が始めたのでなく、全く米英、殊にその七、八分迄は米国が主 力となって、日本に喧嘩を仕掛けて来たのである。日本も売られた喧嘩、致し方はない。このまま 泣き寝入りとなれば、立つ瀬は無い。そこで乾坤一擲の場面に乗り出したのである。いわば乗り出さざるを得なかったのである。満洲事変以来、概ね仕事は出先きの者共が勝手に行い、中央では受0 け身となって、後とからそれを承認し、自分達の無為無能無力を飾る為めに、それをそのまま承認 していたのである。中央政府がその通りであれば、恐れながら主上に於かせられても、またその中 央政府の承認したる所を、承認する外はなかったのである。いわば満洲事変から大東亜戦争まで、 下剋上で持ち切ったのである。従てその仕事が成功すれば、仕事に直接関係の無い人までが、初め から関係したような顔をして、その恩典に与かり、若くは恩典を我が物とし、万一それが間違え ば、誰れ一人その責を負う者はないという事になる。それでその結果は、賞有って罰無き、即ち濫 賞無罰という政治が行わるるようになって来たが、それも亦た大袈裟に、大東亜戦争まで持込んで 来たのである。
仮りに明治天皇の御代であったとしたならば、満洲事変の如きは、断じて起らず。また起る必要 もなかったであろう。明治天皇の時代でも、内閣首班者として、相当の「へま」をやった者もい る。取返しの付かぬ失策を仕出かした者もある。しかし下剋上の政治は、何処を見ても行われなか った。いま一例を挙ぐれば、台湾総督児玉伯は、後藤民政長官と計って、廈門を占領すべく、既に その準備に着手した。しかるにそれは越権の処置であるということで、既に船に乗込ませた兵を、 また引戻して中止せしめた。そこで児玉伯は納まらず、辞職の上位記爵位を返上し、一平民となるべく決心した。ところが主上より、米田侍従を勅使として、有難き御沙汰を齎らして、台湾まで御 差遣になり、そこで剛情の児玉伯も、恩命の遅きに感激して、思い止まった。陸軍の児玉、台湾の 児玉といえば、飛ぶ鳥落とす有力者である。しかるに中央政府の手は、かくの如く厳しく彼れの運 動を制し、同時にまた彼をしてその面目を失わざらしむる様の手配を主上は執らせ給うた。これが 所謂恩威並び到るという事であろう。かかる事は、残念ながら、明治の御代にのみ見る事であっ て、以後の御代には、それに比較すべきものさえも見られない。
若し大東亜征戦の当初に於て、当局者にその人あったならば、これ迄の変則を一切建て直して、 正々堂々たる陣容を構う可きであった。奇くも従来の変則政治を建て直すには、唯だこの時をしか りとした。しかるに当局者の誰れ彼れ、重臣元老の誰れ彼れ、何人もそれに気づく者は無く、ずる ずるべったり、従来の慣行のまま流れ込んで行った。これが全く戦争に、中心点を失うたというよ りも、中心が当初から無かった所以である。いわば喧嘩仕掛けられたから、余儀なく喧嘩となった という如く、総べてこの方が当初から受け身であったのである。但だ当時は真珠湾の襲撃、マライ 沖の奇勲、香港陥落、マニラ占領、シンガポール攻略など、矢継早やに功を奏した為めに、誰れ一 人根本的に、如何に薄弱であったかという事に、気付かなかったのである。ところが陸軍も海軍 も、最初の一撃だけは、多年錬りに錬って来た、所謂る十年一剣を磨し来ったものであるから、巧まく図に当ったが、蓄えたる智慧はそれ限りであって、それから先は智慧も分別も出ず、何も彼も 種切れとなったのである。その種切れとなったのに、我が国民は気付かず、また気付かざるように 仕向けて、緒戦同様、百戦百勝であると、大早計に思い込み、また思い込ませられて、やがて目が 醒めた時には、最早や取返しのつかぬ場合となって来た。
所謂る陣容を建て直すには、至尊躬ら軍国の万機を、明治天皇同様御親裁遊ばさるることが、第 一義である。しかるに開戦の当時、何人もそれに気が付く者も無く、当局者さえも、この際こそ明 治の古えに還元す可きである好機会を逸し去って、例によって例の如く、別段御前会議を奏請する でもなければ、大本営会議に御親臨を仰ぐでもなく、殆ど従前通りの仕組を、事実に於ては、その ままやって行いたのみで、ただ異なる所は、人と物とが膨大になって来たというに過ぎなかった。 その膨大になって来た事は、却て仕事の上には、従前に比して、大なる摩擦、衝突、弁格を誘起 し、韓信の所謂る多々益々弁ずるではなくして、多々益々混乱状態に陥り、一切の秩序、整調、諧 和、統一、所謂る総力の発揮を妨ぐることとなって来たのは、洵に遺憾の次第である。場面が狭 く、仕事が単純であれば、変則でも無則でも、やって行けないこともないが、大仕掛けの仕事で は、中央の統制力が強大であり、その力が末梢神経まで行き渡り、一切万事一の大なる意思の下に 活動せしむるに非ざるよりは、到底その功を奏することは出来ない。しかるに今迄述べた通り、我まこと
まで
国では、時としては手が頭の代りを為し、時としては足が頭の代りを為し、その主動の力は、常に 局部に偏在して、これを総括的に統帥する力が、皆無といわざる迄も、極めて薄弱であったこと は、実に今日の敗北を招来したるに於て、決して不思議ではないと思う。
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