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三四 統制経済の失敗と食糧政策の貧弱

頑蘇夢物語
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今ここに統制経済の得失を論ずる訳ではない。しかし余りに杓子定規に、ただ机の上で何事も規定し、それを一片の文書として交付し、それで物が出来たというような考えであるから、なかなか実際は計画通りに行わるべきものではない。この統制が行われた為めに、一口にいえば、従来日本に行われたる、一切の生活、及び経済の機構は破壊し、秩序は案乱し、運動は麻痺状態に陥った。日本の統制経済では、役者に角力を取らせ、角力取に舞台に立たしめ、お姫様は田の草取りを為し、田の草取りはお姫様の仕事をするという如き、従来の技術とか芸能とかいうものを、一切無視して、総てを白紙同様と見て、やったから、堪まるものではない。例えばある地方の如きは、船舶の製造を専らにした処であるが、統制経済の為めに、それが出来なくなって、折角技能ある船大工は、手を空しくしているような事になっている。しかも他方に於ては、政府は小舟の欠乏に困窮して、木船の製造などという事を、大騒ぎで奨励している。統制経済も今少し実際と睨み合せ、且つその法規が、如何なる状態に行われ居るかを観察もし、研究もして、それが円滑に、且つ円満に、行わるるようにしたらば、これ程の摩擦も来たさなかったであろうが、宛かも家鴨が卵をもった如く、もち放しで、それから先は、自働的に物が行わるるものと考えているから、その結果は飛でもない事となっているのである。殊に統制という事を、変な意味に取り違え、食糧などは、県外移出を禁止するというが如き事となって、その為めに、飛でもない騒ぎを惹起こしたることは、誰彼となく皆な知る所である。一例を挙ぐれば、千葉県などという所は、東京都の台所を賄う食糧庫である。ところが千葉県から、移出を禁止するという事になれば、東京都の人間は、何を食って生きて行くのか。これは埼玉県についても、同様にいうことが出来る。あるいは茨城県についても、同様にいうことが出来る。せめてこの狭い日本国だから、有無相通じ、多寡相補い、足らざる事もなければ、余る事もないように、調節すべきであるが、一方では腐るように有って、他方には薬にしたくも、無いという如き事となり。且また偶々一の場所から、他の場所迄、移出も移入も出来ぬ場所に於てさえも、運輸が不便で、手が届かぬとて、薩摩芋を腐らしたり、馬鈴薯を腐らしたりした例は、余る程ある。食糧飢饉というが、実は統制機関の活動が、円滑を欠いた為めに、自然の饉ではなくして、人造飢饉を現出したる例が、決して鮮なくない。

総て官僚の仕事というものは、机の上で考えて、書付一本で、何事も出来るものと思い、あるいはそれさえすれば、最早や乃公等の責任は、全く解除されたと思って、それから先は、野となれ山となれ、関する所でないという如き、不徹底、不深切、無頓着、無責任の傾向が、随所に暴露されている。例えば、一の印刷機械を動かすさえも、それを組立てたばかりで、決して円滑に運動するものではない。それが試運転をなし、愈々それが物になるという迄には、技師が最後迄見届けて、しかる後これを活用するという事になるのである。法規さえ製造すれば、それが自動的に行わるるなどと思うている事は、余りにも人間を莫迦にしたものと、いわねばならぬ。人間は動物の中で、最も扱いにくき動物である。しかるにその動物を、官僚共が、十三行罫紙で、勝手次第に、これを扱いこなさんとするは、以ての外の事であるといわねばならぬ。

およそ官僚ほど後先を考えないものはない。彼等はただ現在のみを考えている。ある時には米が多過ぎて、米価が下落し、百姓が困るといって、その為めに、田を廃して、桑畑となす事を奨励した。彼等は日本の人口が、少なくとも百万内外を上下して、増加しつつある事に無頓着である。さて食糧が不足という事になれば、桑畑も廃せよ、果樹園も廃せよ、葡萄園も廃せよ、蜜柑畑も廃せよなぞといって、宛かも蜜柑とか、葡萄とか、その他の果樹とかいうものは、食物でもなければ、人間を養うものでもなく、何か無用の長物ででもあるかの如くに、取扱っている。元来蜜柑畑とか、葡萄畑とかいうものは、総てとはいわぬが、概ね水田は勿論、陸稲も出来ず、麦畑にも向かないような土地であるから、種々研究の上、あるいは蜜柑畑となし、あるいは葡萄園となし、あるいは桃、あるいは梨となした類のものが多いのである。それを一切葡萄羅の根こぎにし、蜜柑の樹を伐倒して薪となし、さてその跡には何を作るか、何を植えるか。それらの事には一切頓着がないのである。且つ土地が不足であるから、開墾などという事に、政府が力を注ぎ、荒蕪地を開拓した者には、夫々の冥加金を与うる仕組となっている。それで頻りにその方面を奨励し、我県ではこれだけの新開墾地が出来た、我が地方では、それだけの新開墾地が出来たといって、互に誇っているが、安ぞ知らん折角の良田美圃を、あるいは小作人が返納したとか、あるいは労力が足らぬとか、またあるいは余り沢山耕作すれば、供出に取られて仕舞うとかいうような事で、それをそのまま放ったらかしにして行く者が、決して少なくない。一方に荒蕪地を開墾するよりも、その良田美画を、残る所なく耕作したらんには、得る所は多くして、労はこれに半ばすることであろうと思わるるが、しかし彼等は、ただ自己の手柄に誇らんが為に、それらの事を、殆ど閑却している。かかる例を挙ぐれば、数限りもないが、官僚の仕事というものは、大概今述べた通りである。

戦争中日本は、全く大闇の国となった。所謂る闇の流行するは、置郵して命を伝うるよりも速かなるもので、商売人が闇をすれば、工業者も闇を為し、しかも闇の親玉は、何といっても、日本の農業者を以て、その横綱とせねばなるまい。百姓の方では、買う者あるが為めに売るのである、我等が好んで闇をするのでない、相手が勝手に金を出すから、こちらもそれに応じて、勝手に金を取るだけだというが、また買う者の側からいえば、闇値で買わなければ、米一粒、大根一本さえも、得ることが出来ぬから、百姓の言い値次第に買うのであるという。売る者非か、買う者是か。買う者非か、売る者是か。それらの詮議は姑く措いて、兎に角日本は全く闇の国となっている。聞けば日本ばかりではなく、何れも皆然りというが、他所の事は兎も角も、日本国の闇は、全く日本国民にとっては、大なる呪いであって、これが為めに、国民は、戦争する勇気もなければ、戦争を継続せんとする根気もなく、ただその日暮しで、その日何時か亡びんという敗戦思想が、日に増し増加することとなって来た。言い換うれば、闇値が高くなるにつけ、それだけ戦闘力は減殺せられて来たといってもよかろう。

かくの如き大闇を作った原因に遡れば、その一は、公定価格なるものを、余りに実際と飛離れた所に設けて、その為めに生産者が、供出をせずして、横流しにするようになったという事が、第一に数えらるるのである。政府もその事を満更ら知らぬではなく、その為めに、公定価格を改定して見たり、あるいは供出者に対して、奨励金を与えて見たり、色々の事をしたが、何れも概ね小刀細工であって、何事も小出しにやって行くから、総ての事が、焼け石に水を注けた如く、何等の効用もなかった。加之当局は、法規を制定したばかりで、実力が無く、また実行せしむるだけの深切心もなかった。例えばここに一の市があるとすれば、県庁からその市に割当てで、野菜何千貫とか、穀物何百石とか、ちゃんと割当が定まっている。しかしそれは法規だけであって、実際は決してその通りには参らない。現に予自らが、ある市の市長に聞いたところが、野菜などは、文書の上では相当に来る事になっているが、配給所には、殆ど入荷が無い。それで余儀なく、市民が近傍に買漁りに行く事を、大目に見ている始末であるというようなことを語った。闇が行わるれば、金持ちだけは兎も角もであるが、困ったものは、その日暮しの者である。買うだけの金も無ければ、売るだけの物も無い。その上は他人の畑に立入って、物を盗むやら、あるいは店頭から奪い去るより外に途はない。ユーゴーの小説『哀史』の中のジャン・バルジャンが、麵麵を窃んだような始末に、一般国民を置かなければならぬというように、仕向けた事は、当局者にとって、決して誇りとすべきではあるまい。これも畢竟先見の明が無い為めと、いうことも出来る。
戦争をするには兵根が要る。兵根は必ず貯えて置かねばならぬ。貯えて置かなければ、またそれを継続的に生産するだけの準備をしなければならぬ。しかるにそれやこれやは、全く放ったらかしにして、ただ食糧の制限のみを、喧かましくいっては、とてもやって行ける筈はない。それにまたかかる状態を現出したる一は、必要以上に物資を、軍隊が占有した事である。泣く子と地頭には勝てぬというが、敵には勝っても、軍隊には勝てないという事が、日本の常識であって、奇くも軍の言う事ならば、道理であろうが、不道理であろうが、黙って通すという事が、常識になっていた。その為めに、軍は必要以上に、物資を貯えて、その為めに、一般国民に、如何に多くの欠乏を感ぜしめたる事かは、戦時では、これを知てもいう者はなく、また中にはそれ程とは考えていなかったかも知れぬが、愈々戦争の幕が閉じられて仕舞えば、国民は皆な挙ぞって驚ろいた。それは上は巨頭の将軍連から、下は木ッ葉武者に至る迄、無条件降伏、武装解除はせしめられたが、その代りに桃太郎が鬼ケ島より帰りたる如く、何れも土産沢山であった。その事についても、相当の申訳をして、決して左様な事は致さぬなどといっているが、十目の見る所、十指の指さす所、申訳は役に立たぬ。国民の膏血を搾って、山程積んだ物を、一旦無条件降伏となれば、我物顔に勝手に分配し、恰かも大野九郎兵衛親子が、赤穂城の明け渡しの際に、しこたま奪い取て逐電したという昔物語を、髣髴せしむる如き、怪しからぬ風体を示した事を以ても、これを知ることが出来る。
自分は戦争の巧まく行かなかった事については、統制経済の失敗と、食糧政策の貧弱であったという事を、ここに特筆して置くが、その原因は、皆な日本の官僚に、禍せられた事といわねばならぬと信ずる。実に日本国を誤まって、今日に至らしめたものは、総ての責任悉く官僚に在りとはいわぬが、しかも官僚は、その責任の主なる部分に、相当するものと、いわざるを得ない。しかるにその官僚が、今尚お依然として居据り、知らぬ顔してまた今日の新事態に、頬冠りをして、居据っている事は、厚顔無恥などという言葉では、とても形容の出来るものではあるまいと思う。

(昭和二十年九月二十九日午後、双宜荘にて)

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