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四 万世太平の真諦

頑蘇夢物語
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根本的の間違いは、皇室、国家、国民この三者を切離して考える事である。外国では、君主は会 社の社長や重役の如く、他から聘うて来たこともあり、選挙することもあり、世襲であっても、勝 手に取換えることも出来る。いわば帽子である。また国家と国民も、自ら同一の場合もあれば、同 一ならざる場合もある。異りたる民族が集まって、一の国家を作為する場合もあれば、一の民族が他の民族を支配する場合もある。しかるに日本では、絶対にこの三者は切離して考うる事は出来な い。皇室を離れて日本国の存在もなければ、日本国民の存在もない。同時に恐れながら、日本国家 を離れ、日本国民を離れて、皇室のみが存在せらるる筈もない。

豊葦原ノ千五百秋ノ瑞穂ノ国ハ是レ吾カ子孫ノ王タルヘキ地ナリ宜シク爾 皇孫就キテ治セ行矢 宝祚ノ隆エマサムコト当二天壌ト与ニ窮リナカルヘシ

この御神勅の意味を奉戴すれば、皇室が日本国家と日本国民とを離れて、皇室のみとして、御存 在のあるべき筈はない。いわば国も民も、皇室を頭首と戴くものであって、皇室に対する臣民とし ては、これを国民といい、皇室の統治せらるる地域としては、これを国家というに外ならない。首 を戴くは体でなくてはならぬ。体を切離して、首のみが存在する筈はない。しかるにこの国家と、 この人民を別にして、皇室を考えるという事は、全く頭首を帽子同様に考えている英米思想の残滓 に過ぎない。

従て皇室さえ御存在あれば、日本は如何ようになっても、差支ないなぞという議論は、日本国民 として、奇くも我が国体の真相を知る者は、断じて口にすべきものではない。義は君臣、情は父子、皇室と皇民とは、決して切離すべきものではない。皇民の本源に 遡 れば、必ず皇室がその源 頭である。大なる家族的国家である日本が、家族は如何になっても、また家は如何になっても、家 長さえあれば宜いではないかという論は成り立たない。しかるに我等は陛下の御主権を、敵国人が 容認したから、それで差支なしなどという事は、何たる譜言であるか。首を支うるには飽く迄体が なからねばならぬ。体を切離して、首さえあれば差支なしなどという考えは、有り得る筈はない。
日本国民の擁護を離れて、他の力によって皇室を擁護するなどという事は、実に皇室の尊厳を冒潰 し奉るの極度である。日本国を辱かしむるという事は、皇室を辱かしむる事であり、忠良なる皇室 の臣民たる日本国民を辱かしむるの所以である。日本皇民は誰れの皇民でもない。天皇の皇民であ る。奇くも尊皇の大義に明かなる者は、この国家とこの国民とを、珍重護持せねばならぬ。しかる に国家や国民は如何ようにもあれ、皇室の主権だけを、外人が容認したから、それで我等は満足で あるというような事は、実に皇国と皇民とを侮辱するばかりでなく、恐れながら皇室を侮辱し奉る ものといわねばならぬ。

また敵国に降参して、国家万世の太平を開くというが、万世どころではない、恐らくは三日の太 平さえも、維持する事は出来まい。高くも日本国民に国民たる魂がある以上は、外国に降伏し、日 本固有の日本精神を嬲棄し、その生活も、その思想も、 悉 く外人の命令通り、誘導通り、強制通り、期待通り、行うべき筈はない。かくの如くに行うならば、最早や日本国は、物質的にも、精神 的にも、滅亡したものといわねばならぬ。それで万世の太平を開くなぞという事は、余りにも事実 と掛け離れている。

あるいは曰く、戦争を継続すれば、到底勝ち目がない。勝ち目がない戦争をして、その挙句は、 累を皇室に及ぼす事となる。そこで皇室の御為めを考えて、思い切って恥を忍んで、降伏すべきで あると。元来戦争は水物である。相撲が土俵の中に立たぬ前に、勝敗が定まる筈はない。勝つか負 けるか、四つに組んで初めて判かるのである。日露戦争の時にも、日本は必ず負けるものと、世界 は折紙を付けていた。しかるに勝ったではないか。日本では、前にも申した通り、未だ使用せない 軍隊が、内地ばかりで五百万ある。支那を合すれば六百万となり、飛行機のみが一万台ある。精々 差引いても、八千台は優に、使用が出来る。しかるに是等の物を擁しつつ、負けるから軍さはせぬ という見込みは、余りにも臆病神に取り憑かれているではないか。万一戦争をして、負けた時に は、それは時の運である。その時には、累を皇室に及ぼすというが、日本国土と日本臣民とを離れ て、皇室のみを考えることは出来ぬという前提から見れば、この戦争は皇室御自身の戦争であり、 天皇御自身の戦争である。累を及ぼすとか、及ぼさぬとかいう事は、皇室を日本国家と別物として の考えであって、切離すことの出来ぬものに、累を及ぼすとか、及ぼさぬとかいう文 くべき筈はない。一家が没落する時には、家長も当然没落せねばならぬ。国民と憂苦艱難を共にし給うと ころに、初めてここに皇室の有難味がある。国民の利害休戚は、一切度外視して、皇室さえ安泰で あれば、それで宜しいという事は、日本の国体には有り得べき事ではない。それは独逸のホーヘン ツォルレン家の最後の皇帝、ウィルヘルム二世の如きが、それである。国が如何になっても自分さえ安全ならば宜いというので、一番先に遁げ出したのが、それである。身を以て国難に代らせ給う如き、亀山天皇の思召の如きは、独逸の君主などの、夢にも領解するところではない。しかし、そ れが日本の国体の有難きところである。あるいは曰く、戦争して敗北すれば、何もかも失うではないか。それよりも大概の所で見切りを付けて、降参するが上分別であると。それが全たく我等の平 生排斥する功利論である。仮りに戦争に負けたとしても、また敵が原子爆弾を濫用したとしても、 その為めに我が大和民族が一人も残らず滅亡する心配はない。純粋なる大和民族と称すべきもの は、現在八千万内外であろう。その八千万内外の者を、一人も残らず殺し尽すという事は、到底出 来得べき事ではない。支那の歴史にも『楚三戸と雖も、秦を亡ぼすものは必ず楚ならん』という文 句がある。即ち楚の国が三軒残っても、必ず復讐して秦国を亡ぼすであろうという事である。奇く も日本国民が仮りにその半数である四千万となっても、皇室は厳として日本国民の上に、君臨し給 う事は確実である。しかるにその君臨は、外国の容認の下でもなければ、仁恵の下でもなく、監視 の下でもなければ、監督の下でもない。天照大神以来の御神勅によりての天皇である統治権を知ろしめす訳である。かくてこそ日本は、再興の機会もあれば、復讐の機会もある。即ちかかる場合に 於ては、戦うという事が、勝つ所以であり、死するという事が生くる所以であり、亡びるという事 が、存する所以である。所謂死中活を求むるとはこの事である。これだけの一大決意をなし、一大 飛躍をなして、初めてここに日本民族の光を千古に放つことが出来、所謂万世太平の基を開く事が 出来るのである。降参して万世の太平を開くなど、飛んでもない間違いである。降参の道は堕落の 道であり、屈従の道であり、地獄に向かっての急行列車に乗るも同様である。

(昭和二十年八月十九日午後、双宜荘にて)
頑蘇夢物語
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