甚だ恐れ多き言葉ではあるが、主上には殆ど人間として、一点の非難を申上ぐ可き所なき、完全 無欠の御人格と申しても差支ないが、但だ万世を知ろしめす天皇としての御修養については、頗る 貧弱であらせられたることは、全く輔導者の罪であり、また御成長の上は、輔弼者の罪でありと申 さねばならぬ。不肖予の如きは、僭越にも、自ら身を挺して、若し輔弼の臣たる能わずんば、せめ ては諫争の臣たらんことを期して、その為めには、一命を賭するも、敢て済む所でないと覚悟した るも、遂にその志は空しくなって、今日を見るに至ったことは、寝に痛哭の極みである。元来予は 古事記とか、日本書紀とかを読んで、而して後皇室中心主義を提唱したものではない。むしろ予の 史学は、現代より維新に 遡 り、維新より江戸幕府に遡り、延いて豊臣、織田、戦国時代より、室 町、南北朝、鎌倉、源平、藤原氏の平安朝より、大和時代に及び、而して後に古事記、日本書紀に 及びたるものである。いわば観念的皇室中心主義ではなくして、歴史的事実より帰納して、遂に皇 室中心主義に帰着したるものであって、当初より皇室中心主義なる根本主義を以て、一切を判断せ んとしたるものとは、もしく皇室中心主義でも、大に趣を異にしている。従て予は皇室中心主義を 実行するには、君徳の御涵養という事が、最も大切でありと認め、従て優々この事を機会ある毎に開陳した。予の見る所によれば、皇室中心と君徳とは、決して離る可らざるもので、皇室中心の実 は、君徳によって、初めてこれを行い、君徳の光被は、皇室中心主義によって、初めてこれを完全 ならしむることを得ると信ずる。即ち二者は二にして一、一にして二、この二者によって初めて日 本の国体が、体様兼ね全うすることが出来得ると信じていたのである。この事については、我等の 先輩西郷、木戸、大久保、もしくは三條、岩倉の諸卿なども、必ず予と同一意見であったろうと信 じている。ところが不幸にして現代の人々には、これが充分領会出来なかった。ある人々は、英国 の制度を鵜呑にし、所謂る議会中心主義であって、畢竟 日本に皇統が連綿として存続したるは、 徳川幕府や、室町鎌倉の幕府があり、また藤原氏の摂関政治があった為めであるといい、皇室を実 際政治より敬遠し、これを雲上に祭り上げて置くことが、皇室を存続する所以であるというように 考えていた。それで彼等は皇室中心そのものにさえも、口では別に反対もしないが、心では反対し ていたのであり、とても相手になる訳もなかった。また他の一部の人は、天皇は現津神で在して、 天皇の御命は即ち神の御命である。故に臣道はただ君意に奨順することであって、政治とは即ち祭 り事である。我が国体の極意は、祭政一致であって、今更ら我々臣民が、君徳などという事を、問 題にすべきものではない。それは現津神たる天皇の神聖を冒潰し奉るものであるということであっ て、一方は敬遠主義で雲上に祭り上ぐるものであり、他方はまた天皇を単に現津神としてのみ奉戴頑 し、現在国家の万機を治攪し給う所の、君主であるという事を、忘却するかの如く、ただ天皇を雲の上に仰ぎ奉ることが、臣民の本職であると考えて居りその動機は双方対蹠的であったとしても、 その結果は同一であって、我等の君徳論などは、一方は余計なおせっかいといえば、他方は僭越至 極といい、遂に一顧だも与える者は無かったことは、今日に於て最も予の痛嘆する所である。予は 何時頃より君徳ということを、現在の政治論として、陳述したかを記憶しないが、大正の劈頭に著 わして、相当に当時の世上に影響を与えたと、一般より認められている『時務一家言』には、確か にその一章が掲げられている。また昭和の御代の劈頭には、『昭和一新論』を著わしたが、その中 にも亦たこの問題に説着し、その為めにある人は、予を不敬罪として、告発した程であった。幸に 当時の官憲は、これを取上げずして済んだが、陸かに世間のある部分では、かく認めたことが判か る。また予が『大正の青年と帝国の前途』なる著作中にも、皇室に関する事を、殊に孝明天皇に関 する事を、相当掲げたが、当時寺内伯の如きは、予の意見については可否を言わざるも、むしろか かる問題には触れずもがなというような文句を洩らした。要するに君徳論は、伊藤、山縣迄が限度 であって、その以後は誰も口にせず、また偶々口にしたる者があっても、これを黙殺することにな っていた。しかも世運一転欧米崇拝者が影を潜め、所謂る日本主義者が我物顔に、世の中に振舞う ようになった時代に於ても、絶えて君徳を論ずる者はなく、主上は現津神で在わすという事だけ で、承 詔 必謹、臣道実践が通り文句となって来た。若しこの状態を、維新の先輩若くは元田先生 などを、地下より起こして見せしめたら、国家を誤まる者は、欧米崇拝者ばかりでなく、むしろ彼等ならんと、嘆息せしめたかも知れない。現に予が言論報国会長として、会員の賛同を得て、上奏 文を奉呈するに際してさえも、会員中殊に日本主義者として銘打ちたる人々の中に、異議を唱うる 者、若干あったということを聞いている。かかる状態であるから、我等は主上が、天皇学につい て、御修養の出来なかった事を、決して天皇に対し奉りて、彼是れ申上ぐる訳ではない。唯だこれ が延いて敗戦の一大原因となり、遂に今日の不幸を見るに至りたる事実だけを、有りのままに述べ て、天皇の輔導者であった、若くは輔弼の臣僚であった人々に対しては、敢てその責を問わんと欲 する者である。返す返すも主上御自身は親から最善の努力を遊ばされた御積りであるということ を、我等は信じ、これも亦たかく思わせ給うことも、余儀ない次第であると、観念している。
曽て本年の春の末であったと思う。横尾惣三郎、皆川治廣、松永壽雄その他、時局について、小 磯内閣に建白する所あり。予にその意見書を認ためんことを求めたから、予はこれに応じたが、と ても小磯内閣が相手にならぬから、横尾氏はむしろ上奏しては如何ということを申し来ったから、 予は一議にも及ばず、これを賛成し、横尾氏に向って、『ただ如何に上奏しても、内大臣府で握り 殺せば、それ迄であるから、先ず木戸内府に確かめて来給え、若し内府がこれを取次ぐという事な ら、予は即座に上奏文を認ためて、君に渡すであろう』と答え、その後 幾 もなく、横尾氏は予を 訪問し、木戸内府に面会したるところ『固より上奏文を握り殺すなぞということはない。但し君等までの小磯内閣に与えたる意見書は、既に予も見ているが、御上は木製飛行機について、頗る興味を持 たせ給うから、その方面の事を、成べく具体的に、詳しく書いたがよかろう』 と言うたと、予に語 った。そこで予は聞きも敢えず、『内府が取次ぐというは洵に結構であるが、但し予が起草者たる ことは、御免を蒙る。今日の重大問題は、決して木製飛行機の事ではない。それも多くの箇条の中 に加えてあったが、いわばそれは細条末節である。しかるに主上が、その事に御関心あるから、そ れを詳しく書けなどという事に至っては、沙汰の限りである。木製飛行機の製造方法などは、中島 飛行機会社の技師にでも頼んで、書いて貰ってしかるべし。今日の場合御上の御関心あるべきは、 如何にして敵に勝つかという事である。如何にすれば勝つことが出来るかという事である。また木 戸内府の如き輔弼の臣たる人は、その点に向って聖明を禅補し奉らねばならぬ。しかるに御上の御 趣意に迎合して、予がまたその手先となることは、洵に以て当惑千万である。謹 で御辞退する』 といって、予は謝絶した。その後慶々予に起草を求めたが、予は頑として前言を執て譲らなかった から、他の人の手によって上奏文は提出せられたということを聞いている。一事が万事である。曽 て元朝の亡びんとする時に、他日明の佐命の元勲となった劉基は、左の如き詩を作った。
浪動江淮戦血紅なみこうわいどよも。 は江淮を動して 戦血 紅なり
まさしんそうたっ は応に震聡に達せざるべし
羽書応不達聡
しびもんかせんし、
紫薇門下逢宣使紫薇門下 宣使に逢う 新向湖州召画工新に湖州に向って画工を召したまうと
あらたしゅうむか
がこう」
注○劉基 明の太祖に仕えた学者また文人。伝は『明史』巻一二八。この詩は『誠意伯文集』巻十七
「有感」。○羽書 戦況報告。○履聡 天子のお耳。○紫薇 天子の宮殿。○宣使詔を伝達する使者。 O湖州 浙江省呉興県。元の画家趙孟規及びその甥王蒙の郷里。○画工画家。
これとは同一ではないが、兎も角も世の中は、非常時非常時と叫びつつ、君側はむしろ平常時で あった事は判かる。
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