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三九 日本敗因の一

頑蘇夢物語
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この頃独逸の敗因は、独裁政体に在りという事を、米国の有名なる空軍評論家、アレキサ ンダー・セヴァスキー少佐は、独逸の現状を見て、かく語っている。『独逸の主な弱点は 「ナチ」の独裁に在った。これが敗北の主因であろう。独逸主脳部の考え方は、戦争の最中、何等の進歩も見られない。その為め間もなく、聯合軍に追い越されてしまったのである。聯合国が不意討ちを喰らって、後退を余儀なくされていた時は、欠陥を是正するに客か でなかった。しかるに独逸の独裁政体に見られるように、欠陥を是正する場合、官僚的な拘 束が一切無いので、聯合国の戦略は、動的な力を獲得することが出来た。更に米国は、終局 の権力が、市民の手中に在るという点で、戦争に於て無比の利益を、受けることが出来たの である。』この観察は独逸については兎も角も、日本に於ては、確かに的中している。それ はしかし乍ら、何もデモクラシーに限った事ではない。若しデモクラシーといえば、仏国も 亦たデモクラシーではないか。その独裁国の独逸が負けたからといえば、ソ聯も一皮剥いで 見れば独裁国ではないか。独裁とか自由とかという問題ではない。ただ当局者が、己れを空 しくして、他の意見を聴き容れると否とに在るといわねばならぬ。官僚軍閥の独善主義は、 近頃になって、頗る攻撃されたが、それは今日となっては既に遅いのである。日本が戦争に 負けたる一の理由は、己れを 空 うして、他の力を藉らない事と、今一つはその経験を活か して、飽迄改善進歩の工夫を、戦争中に実行しなかった事である。現にこの点に於ては、日 本で科学研究の大元締というべき、八木秀次博士も、軍部の連中は、偶まに科学者を使用す るも、部分的のことで、いわば科学者は傍観的相談相手とか、諮問機関とかいうに過ぎず。 その力を動員して、全力を致させるような事は、しなかったと言っている。(中略)

しかしこればかりではない。日本の勝つべき戦争に敗けた大なる原因は、この戦争が、国民から全く遊離したる事である。予は未だ動員の数を知らぬが、戦局が進むに従い、動員は あらゆる方面に及んで、学生にも及び、女子にも及び、恐らくは、一千万人を超えたであろ うと思う。これに比すれば、日露戦争の如きは、全く九牛の一毛である。況や日清戦争をや だ。ある家では、息子が三人出征したるばかりでなく、その娘や孫までも、駆り出されてい る。恐らくは一世帯の中に、全く動員せられない家は、殆ど無いという程と見ても、差支あ るまい。しかるに国民は、如何なる熱心を以て、この戦争に当ったかというに、ここに驚く べき欠陥が見出さるる。毎月、月の八日には、大詔奉戴日があり、新聞には必ず紙面第一 に、宣戦の大詔が、麗々しく掲げられ、ラジオは固より、学校その他にも、それぞれその式 が行われていた。また集会のある毎に、出征軍人に感謝するとか、若くはその遺霊に対して の黙橋とか、必ず欠かさず行われていた。また出征軍人の見送り、無声軍人の出迎えなど、 それぞれ市町村より達しがあるやら、通牒があるやら、随分手は届いていた。且つまた主な る将校の死んだる家庭には、地方官とか、やかましき軍人が、挨拶に出かけたこともある。 かかる事は、日清日露の役には、全く無いとはいわぬが、むしろ稀有の例であった。しかる に今度は、総ての事がむしろ煩雑という程に行われて、さて国民が、如何程この戦争に、関 心を持っていたかといえば、申したくない事実ではあるが、概して無関心であったというて も、差支あるまい。出ねばならぬから出る。送らねばならぬから送る。迎えねばならぬから迎える。旗を樹てねばならぬから樹てるという位で、殆ど自発的の事はなかった。これは何故かといえば、この戦争が、事実は国家的国民的戦争であったにも拘らず、全く国民から遊離して、軍閥官僚の戦争と見ていたからである。しかし根が忠君愛国の日本国民であるか ら、八月十五日聖上の御放送を謹聴したる間際には、何れも大なる衝動を銘々の胸に起した が、一日二日を過ぐれば、殆ど半ばは、消えて痕なくなって了まった。これは決して我国の 政体が悪しくて、聯合国例えば英米若くはソ聯の政体が善かった為めとは思われぬ。ただ彼 等は、国民に知らしめ、国民に依らしむる方法をとったが、我国に於ては、知らしめもせ ず、依らしめもせず、ただ自分等勝手に取り決めて、勝手に命令をなし、その命令が、実際 のところ、何処まで徹底したか、それさえ見窮めもせず、ただ遣りっ放しにやって行ったか らと、いわねばならぬ。国民の中にも、一通りの意見を持っている者は少なくない。しかる に当局者は、それ等の者の意見を、聴かないばかりでなく、聴こうともしない。言わんとす れば、忽ち大目玉小目玉を喫せしめて、言わしめぬようにする。 所謂る「道路目を以てす」 という言葉通りに、何人もいわんと欲する事を、いった者が無い。
これでは戦争が、国民から遊離し去る事も、亦た当然といわねばならぬ。総力戦などとい う事は、紙の上の話であって、事実では、全く嘘の皮である。お前達は出すべきものを出せ ば、それで沢山だ。余計なおせっかいはするに及ばぬ。黙り居れという調子で、ただ国民は 一個の納税機関であり、一個の兵力資源である物体と認めて、それ以上の役目を勤めしめな かった事は、全くこの戦争を不人望不人気ならしめた。而して全くこの戦争を他人行儀の形 式物とならしめた。これでは国民が、力の出すべき筈もなく、また出しようもなかったとい わねばならぬ。それで国民の活動力を盛り上げるべき、一大機関である新聞なども、全く機関の空廻りで、何等の役にも立たなかった。日清戦役は申すに及ばず、日露戦役などにも、 放送という大なる機関はなかった。しかるに今回は、新聞雑誌以外に、この一大機関を、手 許に持ちながら、この機関が、全く役に立たなかった。何となれば、放送者は例によって例 の如く、全くそれが型にはまって、国民はこれを聴くことを、好まないばかりでなく、むし ろ厭がる程になった。今更その責任を、誰彼に帰せんとする者ではないが、日清戦役に於け る政治家としての伊藤、軍人としての川上など、また日露戦役に於ける政治家としての伊 藤、山縣、桂、軍人としての寺内、山本などに比べて、実に大東亜征戦の政治家軍人が、見 劣りした事は、今更いう迄もない。これが全く一の大なる敗因となったのである。さりとて 彼等と雖も、若し誠心誠意責任の重大なるを感じ、国民と共に進むという態度を、持ってい たならば、彼等如き凡才庸器でも、国民は必ずしも、深く彼等を咎めなかったであろうが、 余りに彼等が伸しあがり、付けあがり、浮きあがって、彼等自身を、国民から遊離した為め に、国民も亦た遂に、彼等を相手とすることが、出来なかったのである。

(昭和二十年十月八日午後、双宜荘にて)

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